《創られた賢治から愛される賢治に》
「アカ狩り」『啄木 賢治 光太郎』の中に次のような記述があった。
しかし、労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。この間県支部では胆沢郡下の北上川護岸工事をめぐる賃金不払い事件を指導し、普選後初の県議選(同二年九月)総選挙(同三年二月)で横田忠夫や泉国三郎を立候補させたが、いずれも敗退した。
この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。横田兄弟や川村尚三らは、次々に「狐森」(盛岡刑務所の所在地、現前九年三丁目)に送り込まれたいった。
<『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)28pより>この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。横田兄弟や川村尚三らは、次々に「狐森」(盛岡刑務所の所在地、現前九年三丁目)に送り込まれたいった。
私はこれを読んで、先に引用した
八重樫賢師君とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていた。後に陸軍大演習、天皇行幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放され、その地に死す。
<鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)266pより>を思い出すと同時に、頭の中で次のような事柄
・昭和3年陸軍大演習
・ 〃 を前にすさまじい「アカ狩り」
・川村尚三刑務所入り
・八重樫賢師北海道追放
がおもむろに化学反応を起こし始めた気がした。
そして、当時このような「県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた」とすれば、賢治も彼らと同様に官憲からマークされなかったはずがない、と考えざるを得ないと思った。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
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「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
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