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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
「演習」とは「陸軍大演習」のこと
すると荒木が
「でも変だな。俺は、賢治はその頃になるともうすっかり労農党とは縁を切ったものとばかり思っていた。たしか、川村と交換授業を行った後に、『どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起こらない』と言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町を回った、という話じゃなかったっけ?」
<『岩手史学研究 NO.50』>
と疑問を投げかけたのだが、吉田は、
「たしかに川村はそのような証言をしているが、この交換授業は昭和2年のことだろ。ところが、この上京は昭和3年のことだ。しかも、賢治が伊藤兄妹の水沢の実家を訪れるのならばまだしも、農繁期の6月だというのに上京し、その上わざわざ伊藤兄妹の住む伊豆大島まで訪ねて行っている。賢治と労農党との深い関係は、交換授業が終わった後も続いたと判断せざるを得ないだろう。
それは次のようなこと等からも言えると思う。
第一回普選は昭和三年(一九二八)二月二十日だったから、二月初め頃だったと思うが、労農党稗和支部の長屋の事務所は混雑していた。…(中略)…事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった『宮沢賢治さんが、これタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったものだ、と聞いた。
<『國文學』昭和50年4月号(學燈社)>
ということだから、その後も賢治は労農党のシンパ以上の存在だったとならざるを得ないだろう」
と応えた。
これに対して荒木が、結果的に極めて重要なことになるのだが、次のようなことを話しながら、
「そうか、そうすると賢治は当時いわゆる「アカ」と見られていたという可能性がやはりあるということか。ん? なぜ俺が突如こんなことを言い出すのかだって。実は先日たまたまこの本を読んでいたところが、
労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…(中略)…
この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。横田兄弟や川村尚三らは、次々に「狐森」(盛岡刑務所の所在地、現前九年三丁目)に送り込まれたいった。
<『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)>
と述べられていたからなんだ」
と、ためらい気味にその本を開いて見せてくれた。その途端、
「荒木、やった! これだこれこれ。件の「演習」とはそれこそこの「陸軍大演習」ことだったのだ」
と私は大声を出してしまった。
そして吉田はといえば腕組みをしながら、
「そうだよな、「演習」とは「陸軍大演習」のことだったんだ。なんで僕は今までそれに気付かなかったのだろうか。そうそうそういえば今思い出した。名須川溢雄の論文「賢治と労農党」の中に
八重樫賢師とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者であり、下根子に賢治のような農園をひらき、労農党の活動をしていたという。しかもこの八重樫はまさしくその陸軍大演習の直前に、要注意人物ということで北海道に追放されて、その地に死んだ。
というような内容のことがたしか書かれていたはずだ。
これはただごとでは済まなくなったぞ。川村が捕まり、八重樫が北海道に追放されたのだから、彼等との繋がりの強い賢治に官憲の手が伸びない訳はないからな。そして前述の小館長右衛門は当時戦闘的な活動家だったと聞くが、この時の凄まじい「アカ狩り」によって彼が小樽に奔ったのも昭和3年8月だ。定説は覆るかもしれん」
と言って最後は口をつぐんでしまった。
やや間を置いて荒木が
「済まんが今日はこの辺で終わりに出来ないかな。実は明日から愚妻と旅に出るんで…」
と遠慮がちに言うので、私が
「それじゃ、この続きは荒木ご夫妻が旅行から戻ってからということにしよう。それまでに出来るだけ調べておくからさ」
と約束し、解散することにした。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
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を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。延いては、
小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、 『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。
そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。
そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。
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