みちのくの山野草

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4259 「賢治年譜 昭和3年9月23日」の註への疑問

2014-12-15 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
<『白亞校百年史 寫真』(盛岡一高)64~65pより>
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
昭和3年頃の盛岡中学
鈴木 これは盛岡一高の百周年の際に発刊された『白亞校百年史』の一分冊、『白亞校百年史 寫真』に載っている、昭和3年の『陸軍特別大演習』に関わる写真だけど、そこには、
 大正から昭和へ
 昭和と改元されると、次第に軍事色が強まってきた。昭和3年、県内で陸軍特別演習が行われ、盛中生も親閲行進に加わるなど、学舎にも軍事色の影がひたひたと押し寄せていた。しかし、一方では、盛中社会科学研究会が非合法の形で活動するなど、軍事色に抵抗するグループもみられた。
と述べてある。
荒木 そっか、左上の写真はその時の盛中生の
   県公会堂(大本営)前の御親閲分列行進
の様子であり、右上の写真は
   盛岡中学校で行われた「天皇御講評」
の光景なんだ。
吉田 そうか、「一方では、盛中社会科学研究会が非合法の形で活動するなど、」だったんだ、盛中生もなかなかやるじゃないか。

その頃賢治は
荒木 そういえば、その頃賢治は「盛岡中学校校友会」から依頼されて、「生徒諸君に寄せる」や「キノハカという黒い花」」を詠んでいたとかいう話を聞いたことがあるけど実際はどうだったんだろうか。はたまたこの『陸軍特別大演習』を前にして県下で吹き荒れた凄まじい「アカ狩り」に対して、その頃労農党のシンパでもあったとみられる賢治はどう対応していたんだべ?
鈴木 私自身はこの2枚組の結構立派な郵便絵葉書に出逢って、ますます私見
 昭和3年8月10日に賢治が実家に帰ったのは体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われた特高等の凄まじい「アカ狩り」から逃れることがその主な理由であり、賢治は重病であるということにして実家にて蟄居・謹慎していた。
に自信を持つことができた。
荒木 そういえばそうだった。鈴木は前著でそのような主張をしていた、すっかり忘れてたごめんごめん。
吉田 いまだかつて、賢治が澤里武治に宛てた書簡(昭和3年9月23日付)に認めてある
    演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
の「演習」とはこの時の『陸軍特別大演習』のことを指しているということを、鈴木が主張する以前に言った宮澤賢治研究家は誰一人としていなかったというのにもかかわらず、大胆にもな。
鈴木 そう大胆すぎたのだが、この「演習」とはまさしくこの『陸軍特別大演習』であったということを先に拙著『羅須地人協会の終焉-その真実-』において実証したつもりだが、この度あらたにこの2枚組の郵便絵葉書に出逢って、この「私見」はそれ程荒唐無稽なものではなく、実は案外真実に迫っているのではなかろうかとさらに確信が増したところだ。
荒木 それはちょっと自画自賛過ぎるんじゃねえのか。
鈴木 へへぇ、まあその感は否めないけど。でも、『陸軍特別大演習岩手県記録』(岩手県)<*>によれば、その大演習が10月6日に花巻を皮切りに始まったこと、その大演習が行われた日居城野には立派な『御野立所祈念塔』が建立されたこと、そして立派な『陸軍特別大演習記念写真帖』(岩手日報社)』が出版されたこと、そしてこのようなカラー刷りの『陸軍大演習記念郵便はがき』が売りに出されていたということを知れば、「凄まじいアカ狩り」を伴っていたことまで知っていたかどうかはさておき、「大正から昭和」の時代を生きた岩手の人たち、とりわけ花巻や盛岡の人たちが少なくともこの『大演習』を知らないはずがないと思ったからからなんだ。
吉田 考えてみれば、賢治がは9月23日付澤里武治宛書簡「243」において
 八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。…(略)…演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
と書いているわけだし、『阿部晁の家政日誌』の昭和3年の次の記載
○九月二二日
[往来・往]宮沢政次郎氏
[贈答・進]宮沢賢治君病気見舞トシテ牛乳三升(根子切手)
               <『宮澤賢治研究Annual Vo.15』2005(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)170pより>
とを合わせて判断すれば、9月22日には病も癒えて阿部晁からは見舞いも受けているとも考えられるから、常識的に考えれば賢治はこの「演習」を『陸軍特別大演習』の意味で書いていると判断できるだろう。
荒木 しかし「賢治年譜」には、桜にかつてあった「陸軍工兵演習廠舎」に来ていた兵隊の架橋演習と書いていなかったっけ?
鈴木 たしかに、「旧校本年譜」では、九月二三日(日)における高橋(澤里)武治あて返書に関わって、「旧校本年譜」は
    演習(盛岡の工兵隊がきて架橋演習などをしていた)が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
              <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)635pより>
としていて、その演習は「盛岡の工兵隊がきて架橋演習などをしていた」その演習だと断定していると取られてもしょうがない記述をしている。
吉田 しかも、『新校本年譜』になってからも相変わらずで、
九月二三日(日) 高橋武治あて返書。
 「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。…(略)…演習<*45>が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。」
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜編』(筑摩書房)380pより>
としていて、その<*45>の註釈は
    盛岡の工兵隊がきて架橋演習などをしていた。
と一言一句違ってないから、堀尾青史の編纂した「旧校本年譜」と全く同じで旧態依然である。
荒木 だったら、俺がさっき言ったとおりじゃないか。
鈴木 ところが、筑摩は「新」「旧」共にその出典を明示していない。しかも、『花巻の歴史 下』によれば、
(一)工兵廠舎(花巻演習場廠舎)
 第八師団は…(略)…日露戦役後、同隊は盛岡に移転したので、その架橋演習には第二師団管下の前沢演習場を使用することに臨時に定めらていた。
 ところが、その後まもなく黒沢尻――日詰館に演習場設置の話があったので、根子村・谷沢村・花巻両町が共同して敷地の寄付をすることになり、下根子桜に、明治四十一年(一九〇八)、東西百間、南北五十間の演習廠舎を建てた。
 毎年、七月下旬から八月上旬までは、騎兵、八月上旬から九月上旬までは、工兵が来舎して、それぞれ演習を行った。
             <『花巻の歴史 下』(及川雅義著、図書刊行会)66p~より>
となっているから、筑摩の「賢治年譜」には大きな矛盾がある。
荒木 あっそっか、なるほど。たしかにおかしい。

<*:註>
10月6日 まず花巻日居城野にて、その後紫波郡古館村にて演習統監
10月7日 盛岡の観武ヶ原にて最後の演習統監
10月8日 盛岡中学で講評
10月9日 観武ヶ原観兵式(降雨のため中止) 午後盛岡高等農林で賜饌
10月10日 親閲式 帝都還行
10月11日 丸茂知事等上京し行幸の御礼言上

              <『陸軍特別大演習岩手県記録』(岩手県)6p~より>
 
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