川村尚三
そういえば、以前にも触れたように『啄木 賢治 光太郎』では昭和3年のこととしてこんな事も記されていた。
つまり、川村尚三はこの大演習を前にして「アカ狩り」で無理矢理「狐森」に放り込まれたということになろう。
実質的な支部長
ところで、この川村尚三とは、名須川溢男によれば
という。
交換授業
同じく名須川によれば、川村尚三は同年、昭和2年の夏から秋にかけて次のような「交換授業」を賢治とやっていた人物であるともいう。
賢治は相変わらずシンパ
先の証言によれば、この交換授業後もう賢治は労農党とは手を切ったような感じにも受けとられるが、そうとばかりも言えなさそうだ。同じく名須川によれば
その後も賢治は労農党の強力なシンパであったといえそうだ。
政次郎も証言
実際、父政次郎は小倉豊文に対して
ということだから、それはほぼ間違いなさそうだ。
賢治は「啄木会」の会員でもあった
さらには、賢治に関して川村は次のように証言しているという。
実は、賢治は『啄木会』の会員でもあったことになる。
これだけの証言がある以上、やはり賢治は労農党の少なくとも強力なシンパだったことは間違いなかろう。
そして、この川村は刑務所に送り込まれ、下根子桜に出入りしていた八重樫賢師は北海道に追放(?)された訳だから、賢治が昭和3年の陸軍特別大演習にあたって治安当局や特高からマークされない訳はない、と言えそうだ。
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そういえば、以前にも触れたように『啄木 賢治 光太郎』では昭和3年のこととしてこんな事も記されていた。
この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。横田兄弟や川村尚三らは、次々に「狐森」(盛岡刑務所の所在地、現前九年三丁目)に送り込まれたいった。
<『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)28p~より>つまり、川村尚三はこの大演習を前にして「アカ狩り」で無理矢理「狐森」に放り込まれたということになろう。
実質的な支部長
ところで、この川村尚三とは、名須川溢男によれば
昭和二年(一九二七)労農党稗貫(ママ)支部は、二十歳前後の若者たちで結成された。…(略)…支部長は泉国三郎がなったが、花巻にはあまりいないので実質中心になったのが川村尚三であった。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>という。
交換授業
同じく名須川によれば、川村尚三は同年、昭和2年の夏から秋にかけて次のような「交換授業」を賢治とやっていた人物であるともいう。
夏頃、こいと言うので桜に行ったら玉菜(キャベツ)の手入をしていた、昼食時だったので中に入ったら私にゴマせんべいをだした。賢治は米飯を食べている。『これ、あめたので酢をかけてるんだ』といったのが印象に残っている。口ぐせのように、『俺には実力がないが、お前たちは思った通り進め、何とかタスけてやるから』と言うのだった。その頃、レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば『今度は俺がやる』と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて一くぎりした夜おそく『どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起こらない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町を回った。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>賢治は相変わらずシンパ
先の証言によれば、この交換授業後もう賢治は労農党とは手を切ったような感じにも受けとられるが、そうとばかりも言えなさそうだ。同じく名須川によれば
○ 「第一回普選は昭和三年(一九二八)二月二十日だったから、二月初め頃だったと思うが、労農党稗和支部の長屋の事務所は混雑していた。バケツにしょうふ(のり)を入れてハケを持って「泉国三郎」と新聞紙に大書したビラを街にはりに歩いたものだった。事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった『宮沢賢治さんが、これタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったものだ、と聞いた……。」(花巻市御田屋町、煤孫利吉談 '67・8・8採録)
<『國文學』昭和50年4月号(學燈社)126p~より>その後も賢治は労農党の強力なシンパであったといえそうだ。
政次郎も証言
実際、父政次郎は小倉豊文に対して
彼女の協会への出入に賢治が非常に困惑していたことは、当時の協会員の青年達も知っており、その人達から私は聞いた。それを知った父政次郎翁が「女に白い歯をみせるからだ」と賢治を叱責したということは、翁自身から私は聞いている。労農党支部へのシンパ的行動と共に――。
<『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房、昭和58年)48pより>ということだから、それはほぼ間違いなさそうだ。
賢治は「啄木会」の会員でもあった
さらには、賢治に関して川村は次のように証言しているという。
賢治と私とは他の人々との交際とはちがい、社会主義や労農党のことからであった。賢治は仏教だったが私は阿部治三郎牧師から社会科学の本を読ませてもらい、目をその方に開かせてもらった。
盛岡で労農党の横田忠夫らが中心で啄木会があったが、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた。その会に花巻から賢治と私が入っていた。賢治は啄木を崇拝していた。昭和二年の春頃『労農党の事務所がなくて困っている』と賢治に話したら『おれがかりてくれる』と言って宮沢町の長屋-三間に一間半ぐらい-をかりてくれた。そして桜から(羅須地人協会)机や椅子をもってきてかしてくれた。賢治はシンパだった。経費なども賢治が出したと思う。ドイツ語の本を売った金だとも言っていた。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>盛岡で労農党の横田忠夫らが中心で啄木会があったが、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた。その会に花巻から賢治と私が入っていた。賢治は啄木を崇拝していた。昭和二年の春頃『労農党の事務所がなくて困っている』と賢治に話したら『おれがかりてくれる』と言って宮沢町の長屋-三間に一間半ぐらい-をかりてくれた。そして桜から(羅須地人協会)机や椅子をもってきてかしてくれた。賢治はシンパだった。経費なども賢治が出したと思う。ドイツ語の本を売った金だとも言っていた。
実は、賢治は『啄木会』の会員でもあったことになる。
これだけの証言がある以上、やはり賢治は労農党の少なくとも強力なシンパだったことは間違いなかろう。
そして、この川村は刑務所に送り込まれ、下根子桜に出入りしていた八重樫賢師は北海道に追放(?)された訳だから、賢治が昭和3年の陸軍特別大演習にあたって治安当局や特高からマークされない訳はない、と言えそうだ。
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いつもご教示いただきまして大変ありがとうございます。
私にとりまして、ウィリアム・モリスの社会主義等はちょっと手強そうなのですが、少しずつ学んで参りたいと思います。
これからもどうぞ宜しくお願いいたします。
鈴木 守