みちのくの山野草

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「かつての賢治年譜」の検証

2024-02-09 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉












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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 「かつての賢治年譜」の検証
「しかしさ、この前の早池峰山行だが残念だったな」
と吉田が嘆くと、
「なに、途中ですっかりへばったしまったことか」
と荒木が混ぜっ返す。吉田は言葉に詰まりながら、
「ちっ、違うよ、盗掘のひどさのことだ。特にこの二三年ひどすぎる。賢治もかつて早池峰の盗掘を嘆いた詩を詠んでいたが、人間という生き物は本当に嘆かわしい生き物だということをつくづく今回の山行で思い知らされたからさ。さっ、それはそれとして懸案の「かつての賢治年譜」の検証を始めよう」
と話題を変えたがっているようだ。それを察したのか荒木は直ぐさま報告を開始した。
「そうそう、そういうことだったな。それじゃ俺からだ。
 (1)心身の疲勞を癒す暇もなかったのか
についてだが、この「心身の疲勞」とは何を意味するのだろうかということを俺は考えてみた。この「疲勞」とは、それを癒す暇もなかったということだし、8月10日からは賢治は実家に戻っているということだから、その時よりもしばらく前の「疲勞」と考えられる。まして、賢治自身が「六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで」と書簡にしたためていたことに鑑みれば、この「疲れ」こそが先の「心身の疲勞」に当たると思った。 
 一方、伊藤七雄あて書簡〔240〕の下書(一)の中には
 こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼ うぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしば らくぼんやりして居りました。
           <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
ともあったから、帰花(花巻に帰ること)後も相当疲れが残って
いたと思われる。まさしく「心身の疲勞を癒す暇もなかった」と思うんだ」
 それを受けて吉田は、
「しかしだ、賢治自身は「いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります」とその書簡の続きに書いてあっただろう。ならば、この時の上京の際の疲れは7月初め頃、つまりこの書簡を書いた頃にはもうすっかり取れていた。その「疲勞」は癒されていたんじゃないだろうか。
 さりとてこの他に考えられる「疲勞」がないということもまた一方では言えそうだから、この「(1)」は賢治が8月10日に戻った理由にはならない可能性だってある。単なる「枕詞」だったということさえもあり得るのじゃなかろうか」
と疑問を呈した。
 次に私が、
「それじゃ今度は私の番だが、実はいい情報をゲットしたんだ」
と口を開くと、荒木が
「なに、世紀の大発見でもしたか」
と茶化すので、私もつい格好を付けて、上掲のような《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》を見せながら
「そこまではいかないけど、それに近いかもな。この表は、昭和3年夏の花巻の天気の一覧表だ。この天気については、当時湯口村の村長をしていた阿部晁の『家政日記』に記載されていたものから拾ったものだ。しかも阿部晁は花巻の石神に住んでいたから、この表の天気は当時の花巻の天気と判断してほぼ間違いなかろう」
と自慢げに嘯いた。すかさず吉田は、
「すごいじゃないか。当時の天気については僕も前々から知りたいと思っていたが、よく見つけたな」
と褒めてくれたので、私はつい調子に乗り、
「詳しい説明は割愛するが、この一覧表と先程挙がった書簡〔240〕の下書及び詩「澱った光の澱の底」から推理すれば、「伊豆大島行」を含む3週間弱の滞京から帰花した後も賢治は10日間ほど、つまり7月4日頃までは「少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居」て無為に過ごしており、7月5日から「やっと勢いもつきあちこちはねあるいて居」たと判断出来る。
 そこでまず
 (2)気候不順に依る稲作の不良はあったのか
についてだが、この表を見た限りにおいてはそんなことはまずなさそうだと推測出来る。それどころか、この時期らしいよい天気が続いているということが判るからだ。もちろん、これだけ雨が降らなければ干魃の心配はある。がしかしこの時期であれば、田植え時及びその直後の水不足とは違って水稲の被害はそれほど心配なかろう。それどころか、この地方の諺『日照りに不作なし』を農民は諳んじながら稔りの秋を楽しみにしていたと考えられる。実際、この昭和3年に干魃により稗貫の水稲が不作だったという記録もないはずだ。それどころか、『昭和3年10月3日付岩手日報』によれば
   県の第1回予想収穫高
  稗貫郡 作付け反別  収穫予想高  前年比較
  水稲  6,326町歩   113,267石    2,130石
  陸稲   195町歩     1,117石   △1,169石
であり、10月時点で前年より約2%の増収が見込まれていた。
 さて、水稲はそれでいいとしてもこのような気候であれば陸稲が心配だ。がしかし、当時の稲作における稗貫地方の陸稲の作付け面積はほんの僅かにすぎない。
陸稲の収穫予想高は前年比較1,169石減だから、収穫高は前年の半分以下であろうことがわかるのでそのことは心配だが、
  195町歩÷(6,326+195)町歩=0.03=3%
であり、稗貫郡内の陸稲作付け割合は稲作全体のわずか3%にしか過ぎないこともわかる。しかも、この195町歩の陸稲のために賢治一人だけが東奔西走したとは常識的に考えられない。
 それからもう一つ、この時期賢治は稲熱病のことを心配していたということのようだが、その病気は高温多湿の場合に起こりやすいものであり、仮に稲熱病にかかった水稲があったにしても、この年は雨の日が殆どなかったから高温多湿とは言えず、その被害は軽かったと思うんだ。
 したがって、仮に「気候不順に依る稲作の不良」があったにしても、それはそれほど甚大なものではなかったと推測出来る。
 そしてこれに関わって、賢治は
 (3)風雨の中を徹宵東奔西走したのか
についてだが、この一覧表に従えば、帰花後~8月10日の間に「風」が吹いた日は7月26日の一日だけあったが、それは晴れた日にだ。「風雨」の日は一日もない。そして、そもそも「雨」が降った日さえも、賢治が帰花後活動し出したと思われる7月5日以降は殆どないし、特に7月28日~8月10日の間にはそのような日は全くない。これではいくら賢治が「東奔西走」しようとしても、それが雨の中でということはほぼ不可能であったということがこれで明らかになった」
と私が一気にしゃべり続けたら、吉田は呆れ顔で言う。
「うん、鈴木の主張についてはわかった、よ~くわかった。となると、実はこの「(2)」や「(3)」も賢治が8月10日に戻った理由にはならない可能性が十分にあり得るってことだね。
 それじゃ僕からは最後の
 (4)遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅したのか
についてだ。
 菊池忠二氏は『私の賢治散歩 下巻』において次のようなことを述べている。
 私がもっとも伊藤さんに聞いてみたかったのは、ここでの農耕生活が病気のために挫折した時、宮澤賢治はどのようにして豊沢町の実家へ帰ったのか、という点だった。それを尋ねると、伊藤さんはふっと遠くを眺めるような目つきをしてから、次のように語ってくれたのである。
 「今でも覚えているのは、私が裏の畑でかせいでいた時、作業服を着た賢治さんが『体の具合が悪いのでちょっと家で休んできますから』と言って、そろそろと静かに歩いて行ったことであんす。」
つまり伊藤忠一の証言によれば、少なくとも伊藤の目からはその時の賢治の病状はそれほど極端に悪化していたとは見えなかった、と言えそうだ。しかも、菊池氏はこの日のことについては宮澤清六自身からも直接訊いており、前掲書において
 初めは「どうだったか忘れてしまったなあ」と語っていた清六さんが、だんだんに「特にこちらから迎えに行ったという記憶はないですねえ」ということだった。そして「これは大事なことですね」と二回ほどつぶやかれたのであった。その口調から私は、伊藤忠一の語った事実が本当であったことを、あらためて確認することができたのである。
とも述べている。つまり、賢治が実家に帰った時はそれほど重篤であった訳でもなかったと清六も証言しているということになる。
 したがって、「風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅し」たという「(4)」も事実だったか怪しいところもあり、賢治が8月10日に戻った理由にはならない可能性が十分にあり得るってことだね」
と、また先程と同じような見方を吉田は最後にした。
 すると、
「つまり、「(1)」~「(4)」の全てがその理由にならない可能性があるっていうことか…。これじゃまるで、賢治が仮病を使っていたと決めつけてそれをあばこうとしているだけだべ…」
と荒木はやや不満げに顔を曇らせた。
 「いやそうではなくて、もしかするとその他にもっと大きな理由があったのかもしれないということを探っているだけだ。そもそも病気が理由で実家に帰ったのであれば、手紙には「演習が終るころはまた根子へ戻って云々」ではなくて「病気がちゃんと治ったならばまた根子へ戻って云々」と手紙に書くはずだ。おかしいと思わんか」
と吉田は肩をすくめた。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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