みちのくの山野草

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「逃避行」していた賢治

2024-02-09 10:00:00 | 羅須地人協会の終焉




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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 「逃避行」していた賢治
 そこへ私は、荒木に追い打ちをかけそうなのでためらいつつも、
「実は、この時の上京は「東京へ逃避行」だったという見方もあるということをこの度知った。それは佐藤竜一氏が自身の著書『宮沢賢治の東京』の中で主張していたことなのだが、
 東京について直ぐ書かれた(六月十日付)「高架線」という詩には、世相が表現されている。
 「労農党は解散される」とあり、次のフレーズが続く。
…(中略)…
 国家主義が台頭してきていた。その動きは当然、羅須地人協会の活動に影を落とした。この時の東京行は、現実からの逃避行であったに違いない。
という見方をしていた」
と紹介した。
 すると、吉田は、
「この昭和3年6月の「伊豆大島行」は伊藤七雄に招かれたもののようだが、この伊藤は当時労農党の幹部であったはずだ。これと似たようなことが川村尚三の場合についても言える。賢治と二人で交換授業をしたこの川村は当時の労農党稗和支部の実質的な代表者であったはずだ。少なくとも、このような労農党の幹部等二人と賢治はかなり親しかったのだから、賢治は労農党の単なるシンパであったというよりはそれ以上の存在だったと考えた方がより自然だと思う。それは当時の労農党盛岡支部役員小館長右衛門の次のような証言、
 宮沢賢治さんは、(労農党稗和支部の)事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。…(中略)…実質的な中心人物だった。おもてにでないだけであったが。
<名須川溢男「賢治と労農党」>
からも言えると思う」
と自身の見解を述べた。そこへ私がつい口を挟んでしまった。
「実はその「伊豆大島行」に関連してだが、かつてはそのような断定などはしていなかったはずなのに、最近は
 伊藤七雄が妹・チヱをともなって花巻の賢治を訪ねてきたのは一九二八(昭和三)年春のことである。
という断定調の通説が一人歩きし始めてる。しかし私は、その訪問時期は昭和2年の秋ではなかろうかと推測している。というのは、伊藤ちゑは藤原嘉藤治に宛てたある書簡の中で、
 私共兄妹が秋花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれどあの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は…
としたためているから、伊藤兄妹が花巻を訪ねたという「秋」は昭和3年6月以前の秋でなければならず、自ずから昭和2年の秋のことであると判断せねばならないからだ」
「そんな書簡初耳だ、どこからその資料を入手したんだ?」
と吉田が訊くものだから、私は続けて 
「実は、伊藤兄妹の血縁の方から貰った資料の中にあった。もしこれが事実であったとするならば、その時期は高瀬露が羅須地人協会を訪れるのを遠慮し出した時期と丁度入れ替わりになっている。なぜなら、上田哲は
 賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏までいろいろ教えていただきました。その後、先生のお仕事の妨げになってはと遠慮するようにしました。
            <『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)>
という、高瀬本人から菊池映一氏が聞いたという証言を得ているからだ。高瀬が賢治の許を訪ねることを遠慮するようになった理由の一つとして、この伊藤ちゑの花巻訪問が密接に関連していたという可能性も否定出来ない。
 だから佐藤氏が主張するように、この時の3週間弱の上京は「逃避行」だったと捉えることもたしかに出来る。それはまず第一に、労農党が解散せねばならなくなったこと等の落胆を紛らわすために、第二に、以前から引きずっている高瀬露とのトラブルから逃れるために逃避行していた、と考えられないこともないからだ」
と私見を述べた。すると吉田も、
「逆に、これがもし「逃避行」でなかったとするならば、この時の上京によって賢治は農繁期に3週間弱もの間羅須地人協会を留守にしてしまったのだから、花巻に戻ったら賢治はそのことを悔いて、帰花直後からは周辺の農家の水稲の生育状況を心配しながら大車輪で見廻っていたはずだ。ところが賢治は、花巻に戻ってからも約10日間ほどをぼんやりと無為に過ごしていた。したがって、昭和3年の賢治は農繁期に3週間弱もの間羅須地人協会を留守にしていただけでなく、その農繁期に稲作指導等をまったくしない約一ヶ月間もの空白を作ってしまっていたことになる。この観点からも、佐藤氏の「東京へ逃避行」だったという見方はたしかに否定しきれない」
と同意を示した。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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