みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

入沢康夫氏からの支持と慫慂

2021-04-30 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 さて、かつての投稿〝賢治の10回目の上京の可能性〟(「賢治の10回目の上京の可能性」とは、「賢治昭和二年上京説」とも言える)というシリーズで、次の仮説、
〈仮説2〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強していたが病気となり、三ヶ月後の昭和3年1月頃に帰花した。
を私は検証できた。
 言い換えれば、「現定説」の、
(大正15年12月2日)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。…投稿者略…
は棄却されねばならなくなったはずだ。そしてまたそれに伴って、
・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治は言い残し、澤里一人に見送られながらチェロを持って上京。
・昭和3年1月頃:約三か月間滞京しながらチェロを猛勉強したがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身軆衰弱。
というように「賢治年譜」は修訂されねばならないはずだ、ということなどをこのシリーズで主張した次第だ。
 畢竟するに、「現定説」には反例があるのだから即棄却せねばならないということである。定説と雖も所詮仮説の一つ過ぎず、反例のある仮説の存在などは許されるわけがないのだから。

 すると、このシリーズの最終回で、入沢康夫氏から
祝 完結 (入沢康夫)2012-02-07 09:08:09「賢治の十回目の上京の可能性」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
というコメントを頂いた。
 しかもご自身のツイッター上で、
入沢康夫 2012年2月6日
「みちのくの山野草」http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku というブログで「賢治の10回目の上京の可能性」という、40回余にわたって展開された論考が完結しました。価値ある新説だと思いますので、諸賢のご検討を期待しております。
とツイートしていることも偶々私は知った。そこで私は、同氏からこの〈仮説2〉に、そしておのずから、チェロ猛勉強のための「賢治昭和二年上京説」に強力な支持を得ているものと認識している。
 また、入沢氏から、「「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します」と仰っていただいたので、これは慫慂であろうと解釈し、このシリーズを冊子化したのが、自費出版した『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』である。

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