みちのくの山野草

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「賢治昭和二年上京説」とクレーマー

2021-05-01 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 さて、入沢康夫氏がご自身のツイッター上で「価値ある新説」とわざわざ私の「賢治昭和二年上京説」を紹介して下さったことから、この説に自信を得た私は、それを『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』というタイトルの一冊の本まとめて平成25年2月に自費出版した。
 すると、この本を読んだある賢治研究家(宮沢賢治奨励賞を受賞したこともあるH氏)を中心にして、拙ブログ等に圧力やクレームがかなりあった(その内容や経緯の詳細については、〝「賢治昭和二年上京説」に対する圧力やクレーム〟をご覧いただきたい)。

 その際にまず気になったことは、この中心人物H氏はおそらく「仮説検証型研究」というものがよくお解りになっておられないのではなかろうかということだった。
 さらには、その仲間と思われる方たち(「デジマア」「とおりすがり」「s」さん)がいわゆるクレーマーのように、あれやこれやとクレーム等を拙ブログのコメント欄に寄せてくるという構図だった。あるいは、この方たちは仲間同士でツイッター上で面白おかしく私のことを誹謗中傷しておられたことも、知った。
 ただし、その一方で心強かったこともあった。それは特に、コメント欄に時々寄せてくれた「又三郎さん」という方からの支持と支援があったことである。おそらく「H」「デジマア」「とおりすがり」「s」さんたちは結構ご年配のようだが、この「又三郎さん」はまだかなり若いお方とみられた。そのような若者が私を支持してくださり、同時に上記のご年配の方たちにその非を説いてくれたからである。
 とはいえ、「H」「デジマア」「とおりすがり」「s」さん等からの私に対するする誹謗中傷や執拗なクレーム、及びそれらへの対応は生産性が全くないのものばかりであり、私はうんざりするだけだった。

 そもそも、私の
 〈仮説2〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強していたが病気となり、三ヶ月後の昭和3年1月頃に帰花した。
は検証できたものだから、その反例が見つからない限りはという限定付きの「真実」となる<*1>。ところが、その中心人物「H」は、この「仮説検証型研究」というものがよくお解りになっておられないようで、そのような反例を私に突きつけることはせずに、なんとも奇妙な、今までに私は一度も聞いたことがない「一本足」論なるものをしきりに振りかざしてこられた。がしかし、元々そんな「論法」は役立たつはずもない。そこで彼は次に、私が検証できた「賢治昭和二年上京説」を否定せんとして、突如『大正15年11月に賢治は上京した』と主張し出したのだった(おそらく、同氏は反例を見つけることができなかったのでこんなことを言い出したのだろうが)。
 そこで私は、ならば、そのユニークな新仮説『大正15年11月に賢治は上京した』をご自身で検証なさってその論考を公にすればいいでしょう、それがH氏のなすべきことですよ、と助言した<*2>。だがしかし、その時もそれ以降もこの仮説『大正15年11月に賢治は上京した』をH氏が検証できたという連絡は私にはないし、それに関する論考を発表したとも聞いていない。その一方で、そのなすべきことはなさらずに拙ブログのコメント欄等を通じて、H氏はその後もなにやかにやと高尚な「学問」を私に披瀝し続けるのだった(私の仮説に反例を突きつけてくだされば私は潔くそれを棄却するというのに、そんなことをなさらずにである。だから私からすれば単なるクレームにしか見えかったので、正直うんざりだった)。
 そこで、私もいつまでも非生産的な論争はしたくなかったので、〝3618 一連のクレームから透けて見えること(増補版)〟において、
 実際、この私の「賢治昭和二年上京説」に対しては著名な宮澤賢治研究家のお一人が、この説を私が本ブログに掲載し終えた際に、
「賢治の十回目の上京(=賢治昭和二年の上京:鈴木註)の可能性」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
というコメントを寄せてくださって、その出版を薦めてくださった。
ということを紹介した。すると、H氏やそのお仲間たちはその「著名な宮澤賢治研究家のお一人」がどなたかすぐお判りになったようで、その後はそれまでのような誹謗中傷やクレームはまずなくなった。だから私は、この「著名な宮澤賢治研究家のお一人」がクレーマーを退却させて下さったと感謝し、安堵したのだった。
 そして、この「著名な宮澤賢治研究家のお一人」こそ誰あろう、入沢康夫氏だったのである。だから私には、今度は入沢康夫氏は、理不尽なクレームにうんざりしていた私を救って下さったのだと、そう思えてならなかった。

<*1:註> このことは一般論でもある。言い換えれば、検証できた仮説を棄却させることができるのはその反例であり、棄却させたければ反例を一個突きつければいいだけの話である。しかも、それによってしか検証できた仮説を棄却させることはできない。これが、「仮説検証型研究」という手法の凄さであり、これだけの偉力を有する学問的武器を私は他に知らない。
<*2:註> H氏のこの仮説『大正15年11月に賢治は上京した』に対しては、私は例の「三か月間の滞京」が反例となることにすぐ気がついたのだが、賢治研究に実績のあるH氏が折角持ち出したユニークな仮説だから、その反例をすぐに突きつけて棄却させるということは、宮沢賢治奨励賞受賞者に対して失礼かなと忖度し、ご自分で気付けるようにと慮って「ご自身で検証なさってその論考を公にすればいいでしょう」と助言したのであった。

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