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第八章 賢治昭和二年の上京(テキスト形式)

2024-03-23 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京
☆ 『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』(テキスト形式タイプ)
第八章 賢治昭和二年の上京

 さて、「♧」が賢治の真実であったとなれば、賢治昭和二年の上京はどのようなものだったのかをこの章では考えてみたい。

1 下根子桜時代の詩創作数
 まずは、賢治はチェロが上達しないことに対してどのように対処したのだろうか。
 グラフから見えてくること
 そのヒントを与えてくれそうなのが下のグラフ【Fig.4 下根子桜時代の詩創作数】である。
 そこからは何が見えてくるか。真っ先に目に付くのが大正15年4月である。この月は全く詩を詠んでいない。そして次が同年12月と翌年の昭和2年1月である。この2ヶ月間も同様に賢治は全く詩を詠んでいない。考えてみれば、前者については賢治が下根子桜に移り住んだばかりの月だから時間的に余裕がなくて詠めなかったと、また後者については、12月の場合は殆ど滞京していたし、1月の場合は例の10日おきの講義等で多忙だったから詠めなかったということでそれぞれいずれも説明が付く。どうやら賢治は忙しいときには詩を詠まない傾向がありそうだ。
 ところが逆に、昭和2年の3月~8月の詩の創作数は極端に
【Fig.4 下根子桜時代の詩創作数】

<「新校本年譜」を基にカウント>
多くなっていることも特徴的である。これは、賢治の羅須地人協会の活動が次第に停滞していったのと対極的な動きを見せていると私には見える。つまり、この3月~8月の間は楽団活動を全くしなくなり、定期的に行われてきた講義も次第に先細りになっていったので、そのことによって生ずる心の隙間を埋めようとしているかの如くに賢治は旺盛に詩を詠んだように見る。それこそ「農民詩」などを。
 そういえば、3月になって一気に創作数が急増しているが、この3月といえば松田甚次郎が初めて下根子桜に賢治を訪ねて来たのだが、その初対面の卒業を間近に控えた盛岡高等農林の若者に「小作人たれ、農村劇をやれ」と賢治が強く熱く迫った月であるという。そして同年の夏頃といえば、その松田がほぼ出来上がった「農村劇」の脚本を携えて故郷新庄から再び指導を受けに来たのが8月8日であった。
 あるいはまた同じくその夏頃といえば、労農党稗貫支部の実質的な支部長川村尚三が賢治から下根子桜に呼ばれたりした頃でもあるし、その年の夏から秋にかけては川村が『国家と革命』を教え、賢治は土壌学を教えるという交換授業を一定期間行ったり(『岩手史学研究N0.50』(岩手史学会)220p~より)していた頃だ。この頃の賢治は精神的昂揚期にあったといえるのだろうか。
 賢治に何が起こったのか
 ところが先のグラフから明らかなように、昭和2年の場合9月になると創作数は一気に激減して2篇のみとなり、その後の10月~3月の半年間はなんと1篇の詩すら詠まれていない。一体そこにはどんな変化が賢治には起こっていたのだろうか。それまでが亢進期であったとみれば、ここからは抑鬱状態に陥ったと見ることもできそうだ。あるいは、そこにはよほどのことが起こっていたと考えるのが自然かなとも思う。
 実際、前掲書の『岩手史学研究N0.50』には続けて、昭和2年に行われた交換授業の結末が書かれており、
 夏から秋にかけて読んでひとくぎりしたある夜おそく『どうもありがとう、ところで講義してもらったが、これはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起こらない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌日からうちわ太鼓で町をまわった。
という。そうすると、昭和2年の夏から秋にかけて行った二人の交換授業を通して、賢治は思想面で大きな変化が起こってしまっていたということは言えそうだ。
 また、上田哲の論文『「宮澤賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―』には、高瀬露が
 賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後、先生のお仕事の妨げになってはと遠慮するようにしました。
<『七尾論叢 第11号』(1996年12月、吉田信一編集、七尾短期大学発行)81pより>
と話したという菊池映一氏の証言が載っている。一般には賢治の方が高瀬露を拒絶したというのが巷間流布している「伝説」であるが、実はその二人の立場は全く逆だということも却ってあり得る。それは、当の露が「事実でないことが語り継がれている」とはっきり言ったと上田哲が『図説 宮沢賢治』(上田・関山・大矢・池野共著、河出書房房新社)所収の「賢治をめぐる女性たち」で述べていることからも提起される。
 つまり、露の方は『春と修羅』を出版したり農民のために献身しようとしたりしている賢治を「師」として崇敬し、それが故に賢治を支援しようとしただけのことだった。ところが、そのような露に賢治は次第に心惹かれていったので、露は賢治にもうこれ以上迷惑を掛けてはいけないと悟って昭和2年の夏以降は下根子桜から遠のくようになってしまった、という可能性すらある。それが賢治にはとても耐えられず、辛かったとも考えられる。さてはてはたしてそうだったのか、それとも伝説通りであったのか現時点では私にはわからないが、いずれにせよ露は賢治の許を離れていった。
 とまれ、昭和2年夏から秋にかけて賢治には思想面あるいは女性関係で急激な変化が起こっていたといえるのではなかろうか。あるいはそのどちらもが起こったのであればなおさらに賢治はショックであったであろう。それゆえ、その後の賢治はしばらく精神的に立ち直れず、詩の創作意欲が湧くというようなことはなかったと解釈すれば、この詩の創作数の推移の説明は付く。
 思考実験(昭和2年9月の上京)
 あるいはまた、9月に入って突如詩の創作数が激減し、以後しばらく皆無となってしまった原因は、大正15年の12月と同様にそれこそ上京していたがためということだってあり得る。
 この昭和2年9月の「2篇」といえば「藤根禁酒会へ贈る」と「華麗樹種品評会」のことのようだが、かつての殆どの「賢治年譜」には次のようにもう1篇の詩が載っていて、
  昭和二年 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
となっている。そして9月に上京したということも同様に。
 だからもしかすると、9月に入って突如創作数が激減し、以後しばらく皆無となってしまったのは精神的なダメージを受けたからだったというよりは、かつての「賢治年譜」の殆どが載せてあったとおりにこの9月に賢治は上京していたからであると考えてもその説明が付くことに気付かされる。ちょうど前年の12月に上京していた時がそうであったように。
 はたまたその両方であって、精神的なダメージと併せて、上京していたからだと考えればその説明はさらに説得力が増してくる。
 そこで、昨今では全く「通説」ではなくなってしまったが、かつて(昭和30年頃以前の)殆どの「宮澤賢治年譜」に載っていた「昭和2年9月の賢治の上京」の可能性について以下に少しく思考実験してみたい。その可能性が、それこそ澤里武治の証言によってある程度裏付けられそうな気がするからである。
 その証言とは、以前に何度も引用している、
 沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。……………① 
<『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月発行)217p~より>
と賢治が澤里に対して語ったという証言である。
 では実験を開始する。
 さて、こう賢治が澤里に話した日はいつかというと、先に検証してみた結果昭和2年の11月頃の霙の降る日であることが間違いなさそうだということが既にわかっている。そうすると、その際賢治が話した「今度はおれも真剣だ」という発言に注目するとあることが見えてくる。
 まずは、このことから次の等式
  「今度」の上京=昭和2年11月頃の上京
が導かれる。すると次に、「今度はおれも真剣だ」という賢治の発言からは、『「今度」でない上京』が「昭和2年11月頃の上京」以前にあったということが導ける。そしてまた、『「今度」でない上京』における賢治のチェロの練習はそれほど「真剣」なものではなかったということも。もちろんそれは、
  「真剣」≒「少なくとも三ヵ月は滞京する」
という程度の意味でではあるが。
 さてそうすると、もちろんこの場合に真っ先に思い出されるのが例の大正15年12月の上京であり、
  「今度」でない上京=大正15年12月の上京 ……………②
という等式が成り立つかもしれない。
 がしかし、
  「今度」でない上京=昭和2年9月の上京 ……………③
という等式だって十分に成り立つ可能性もあるし、賢治の昭和3年6月の上京は当て嵌まらないから、この「②」か「③」以外の候補は考えられない。
 でははたしてどちらが歴史的事実だったのだろうか。そこで注目したいのが「少なくとも三ヵ月は滞京する」である。この具体的な期間の限定の仕方「三ヵ月」は賢治自身が決めたものではなくて、チェロの指導者がその『「今度」でない上京』中に賢治の腕前を直接目の当たりにした上でアドバイスしたものであると考えた方が妥当ではなかろうか。
 そしてまたなにより、この「①」の差し迫った、とりわけ「とにかくおれはやらねばならない」という賢治の語り口からすれば、そのアドバイスを受けたのはそれほど昔のことではなかろう。一方で、約1年前の「三日間のチェロの特訓」はまさしく「真剣」そのものだったはずだ。つまり、大正15年12月の上京の際のチェロの練習も「真剣」だった。さすれば、この場合にどちらがふさわしいかといえ消去法によって「③」の方となろう。
 したがって、言い方を換えれば
◇かつての殆どの「宮澤賢治年譜」にあったように、賢治は昭和2年9月に上京しているという可能性が高い。
と言えそうだ。そしてその上京は、いわば『「三ヶ月もの長期にはわたらない、「それほどは真剣でない」チェロの練習』が目的のそれだった、とも。
 それ故に賢治は忙しくて、昭和2年の10月の詩の創作数は皆無だったとも言えるのかもしれない。そしてこのことからは逆に、9月の上京・滞京は同月の後半からだったということも言えそうだ。「藤根禁酒会へ贈る」が詠まれたのが9月16日だから、この日はまだ岩手に賢治は居たと判断できるからである。
 …と推論してみたが、今回の思考実験はちょっと付会過ぎ
たかもしれない。

2 年譜から消えてゆく
 さて、かつての殆どの「宮澤賢治年譜」にはあったのにいつの間にか消えてしまったものがある。
 そこでこのことに関しての思考実験を以下に試みる。
 準備 かつての「通説」
 まずそのための準備である。かつての「宮澤賢治年譜」には
(ア) 昭和2年
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
(イ) 昭和3年
  1月 この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
というものがあった。これらは当時のいわば「通説」であった。
 もちろん、もし(ア)や(イ)がその後に事実でないということが判ったというのであればその措置は当然のことである。例えば、これらに対する反例がそれぞれ見つかったということなどがあったとしたのならば。しかし、そのようなものが見つかったなどということは公的には一切知らされていないはずである。とすれば考えられることは次の
 ・実は反例があるのだがそれは公にできない。
 ・反例などないが不都合な真実だから抹消してしまいたい。
の二つの場合である。しかもいずれの場合にしても、「不都合な真実」であるから覆い隠してしまいたかったということに結局なりそうだ。
 準備 羅須地人協会の評価
 それにしても、羅須地人協会は私にとってはあまりにもわかっていないことが多すぎる。羅須地人協会の総体をどう評価すればいいのか皆目見当がつかないままにいる。
 では一般にはそれはどのように評価されているのだろうか。例えば、佐藤通雅氏は『宮沢賢治から<宮沢賢治>へ』(學藝書林)の中の章「亀裂する祝祭 羅須地人協会論」において次のように見ていると、私には読み取れる。
 羅須地人協会に関しての評価は正反対に分裂している。一つは賢治がこの地上において試みようとした理想郷、その思想は時代を超えた秀抜さがあるとする考えである。もう一つは逆に時代条件を考慮に入れぬ極めて脆弱な試行であって、文学の達成と関わりのない愚行だとする考えである。そして、前者の考えを代表するのが谷川徹三で、その理想世界を高く評価した。
と。
 たしかに佐藤氏の紹介するとおり、賢治の羅須地人協会に対しては関して極めて高く評価している人達も多いと思う。
 準備完了
 では、以前に述べたことと今述べたこととを併せて次の6つのことを確認しておきたい。
(a) かつての「通説」として「賢治年譜」の中に(ア)と(イ)があった。
(b) 昭和32年頃を境として、以後(ア)と(イ)が「賢治年譜」から消えていった。 
(c) 大正15年12月2日の上京の典拠を『宮澤賢治物語』等にある澤里証言とすれば「現通説」は自己撞着に陥ってしまう。
(d) 賢治の羅須地人協会に関しては極めて高く評価している 人達も多い。
(e)『宮澤賢治物語』の中で澤里は、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」と証言している。
(f) 新聞連載の『宮澤賢治物語』が単行本となった際に、「宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません」の部分が著者以外の何者かによって「宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年に上京して花巻にはおりません」と改竄された。
これで実験の準備は完了した。
 思考実験(年譜からの削除)
 では本番の思考実験を開始したい。
 かつて「通説」として(ア)と(イ)があった(=(a))のに、どうして昭和32年頃を境として、以後(ア)と(イ)が「賢治年譜」から消滅していった(=(b))のか。
 それは先の「実験準備」でも示したように、その頃からそれらは当時の賢治像としては「不都合な真実」だから消し去ってしまいたいという流れが作られていったので、その流れに従わざるを得なかったからである。
 実際、谷川徹三を始めとした「羅須地人協会に」対する当時の高い評価(=(d))からすれば、その「羅須地人協会時代」2年4ヶ月余の中に空白と見なされそうな約3ヶ月があり、しかも、その間の無理なチェロの練習がたたって病気になって花巻に戻った昭和3年1月の賢治が「漸次身體衰弱」状態であった(≒(e))ことに繋がる(ア)と(イ)が「賢治年譜」に明記されてあるのはまずいので不都合だと、当時ある有力な人物X氏は考えた。
 そこで、X氏はこのような情報操作(=(b))を実際に行った。併せて、この「(ア)と(イ)」と密接に関連する(c)の『宮澤賢治物語』における澤里証言がそのまま巷間広まることを避けねばならぬ
と思い詰めたX氏は『宮澤賢治物語』を改竄をした(=(f))。
思考実験終了
 なお、以上はあくまでも単なる実験である。

3 上京してチェロを学ぶしかない
 では、ここからはあの昭和2年11月頃の霙の降るある日について再び考え直してみたい。
 澤里武治の証言の真実
 昭和31年の『岩手日報』に連載された『宮澤賢治物語(49)、(50)』
で澤里武治は次のような証言(以降この証言を「○澤」と略記する)をしている。
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
 『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミー(<ママ>)ナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
 もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村桜に羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
 セロは私が持つて、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまつておりましたが、先生は、
『風邪をひくといけないから、もう帰つて下さい。おれは一人でいいんです。』
 再三そう申されましたが、こんな寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについてさまざま話合うことは大へん楽しいことです。
 間もなく改札が始まつたので、私も先生の後についてホームへ出ました。
 乗車されると、先生は窓から顔を少し出して、
『ご苦労でした。帰つたらあつたまつて休んでください。』
 そして、しつかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。汽車が遠く遠く見えなくなるまで、先生の健康と、そしてご上京の目的が首尾よく達成されることを、どんなに私は祈つたかしれません。
 滞京中の先生は、私達の想像することもできないくらい勉強をされたようです。父上にあてた書簡を見ても、それがよくわかります。…(中略)…
 手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持つていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。 (傍線 〝   〟筆者)
<昭和31年2月22日、同23日付『岩手日報』より>
 あくまでも澤里が証言しているのはかくの如くであり、これ
が「○澤」の真実である。くどいが真実はあくまでも
  昭和二年には先生は上京しておりません。
なのであって、誰か(X氏)が勝手に書き変えた
 昭和二年には上京して花巻にはおりません。
ではないのである。このことがこの「○澤」のポイントの一つで
ある。
 そしてもう一つのポイントは、本証言の傍線〝    〟部
分からそう判断せざるを得ないと私は思うのだが、「○澤」はチ
ェロを持って一人澤里に見送られながら賢治が上京したのは昭和2年11月頃の霙の降る日のことであったということを証言したもの以外の何ものでもないということである。
 言い方を換えれば、
◇この「○澤」を大正15年12月の上京の典拠として使うことは全くできない。
ということであり、このことは既に前に検証したことでもある。
 どの「宮澤賢治年譜」を見ていたか。
 ここまで下根子桜時代の賢治の上京等を調べて来てみてもう
一度件の「○澤」を読み直してみると、その真相と、併せて証言
を改竄したX氏の思惑が垣間見えてくるような気がする。
 まずはこの証言の最初の部分についてである。    
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
 『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミー((ママ))ナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
 さて、このとき澤里はどのような「宮沢賢治年譜」を見ながら証言したのであろうか。まずは、澤里が引用しているように当時の「宮澤賢治年譜」にはすべからく(多少文言の違いはあるものの)、大正15年12月のこととして
 上京タイピスト学校において知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る。
となっている(なお、小倉豊文のものだけはやや異なっている)。その際に賢治は「チェロの特訓」を受けた、などということはもちろんそこには書かれていない。
 そして以前検討した際にも指摘したことだが、かつての殆どの「宮澤賢治年譜」には
  昭和2年 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
となってもいる。つまりかつての「通説」では、少なくとも昭和2年の9月に一度は上京しているとなっていたのである。
 一方で、澤里は
 宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
と証言している訳だから、この際に澤里が見ていた「宮澤賢治年譜」は既に刊行物で公になっていたものではなかったということになろう。その当時公になっていた「賢治年譜」では賢治は昭和2年の9月に上京していたとなっていて、当然賢治は昭和2年には上京したことになるからである。
 したがって、これは以前私が主張したことだが
 澤里は、出版物としては当時まだ公になっていなかった特殊な「宮澤賢治年譜」(とりわけ、賢治は昭和2年には上京していなかったと記載されている年譜)、換言すれば今現在流布している「宮澤賢治年譜」のようなものを基にして証言しなければならなかったという状況下に置かれた、という可能性が大である。
と言いたい。
 そのような特殊な「宮澤賢治年譜」を基にしなければなかった澤里は、自分自身の記憶に自信を持ちつつ、不本意ながら、
…とありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。
とぼやかなければならなかった、ということであろう。もしかすると、このときの澤里はその当時公になっていた「宮澤賢治年譜」を基にすることが許されない状況下に置かれていたという虞れもあった、ということを必然的に導き出すことにもなる。
 そしてもう一つ大きな問題がある。それは、この「○澤」が昭
和31年2月の『岩手日報』に載った際に、
 宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
となっている部分がこのままの形で全国に広がることを恐れ、是が非でもそれを防ぎたいと思った故だろうか、この部分を単行本になる際に改竄してしまった人がいた。
 上京してチェロを学ぶしかないと決意
 さて、以前述べたように
◇楽団を解散はしたものの、少なくとも昭和2年の秋頃までの賢治はチェロの練習をあの「一年の計」に則って一生懸命続けていたであろうと思われる。
のだが、その頃の賢治のチェロの腕前はどうであったか。残念ながらそれは、少なくとも教え子澤里の証言「実のところをいうと、ドレミファもあぶなかった」とか、友人藤原嘉藤治の証言「それもまったく初歩の段階で、音楽の技術は幼稚園よりまだ初歩の段階」という程度の腕前を超えるものではなかったことになろう。
 もちろん、いくらチェロの独習をし続けても自分の腕前が全く上がっていないことは賢治自身も気付いていたであろう。それゆえ、賢治は何とか新たな方途を探らねばならないと思ったに違いない。チェロが上手くなるにはもはや上京して誰かに就いて教わらねばならぬと、そう賢治は思い詰めるようになっていったのではなかろうか。
 そして、もしかするとそれが昭和2年9月の上京だったのかもしれないし、少なくとも昭和2年11月頃の霙の降る日の上京の方はまさしくずばりそのためだったということは言えよう。
 ところで、『宮沢賢治物語』の中の「セロ 沢里武治氏からきいた話」の中に次のような証言
 セロについて思い出されることは、先生はセロの取り扱いに実に細心の注意を払われ、私以上の((ママ))他の人にはなるべく手に触れさせないようになさいました。セロは基本から始められたので、自在に弾きこなすというところまではいかなかつたのですが、その後、病気をされたり、農村をかけずりまわつたり、いろいろ忙しくなつたことは、先生も心残りに思つておいででしよう。
<『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)218pより>
がある。
 この証言からは次の2つのことが窺える。
 その一つは、賢治はチェロを基本から学び始めたが、それがあまり上達せぬままに、病気になったということである。
 そして、この病気はあの昭和3年8月10日に実家に戻ったときのものかなと一瞬思ってしまうが、「その後、病気をされたり、農村をかけずりまわつたり」の順番に語られているから、チェロが上達せぬままに病気になり、その病気が癒えた後には農村をかけずり回ったということとなりそうで、この病気は昭和3年8月に罹ったものではなさそうである。この昭和3年8月の場合はその後に「農村をかけずりまわつたり」はしていないからである。
 さらには、「お疲れのためか病気もされた」と言っているところの病気とはかつての「宮澤賢治年譜」では「通説」であった「昭和3年1月 …漸次身體衰弱す」のことを意味し、「農村をかけずりまわつた」とは昭和3年3月15日から一週間ほど開催された石鳥谷肥料相談所などのことを意味しているとすればピッタリと符合するからである。
 もう一つは、賢治はとりわけ澤里のことを信頼していたということである。もちろんそれは賢治のチェロについて「私以上の((ママ))他の人にはなるべく手に触れさせないようになさいました」と澤里が語っていることから容易にわかる。
 ところが、このような師弟関係はこの澤里の証言だけからではなく、賢治が澤里に宛てた書簡からも汲み取れる。書簡のやりとりが多いこともそれを物語っていると思うが、賢治が澤里に結構いろいろなことを頼んでいること、例えば「栗の木についたやどりぎを二三枝とってきてくれませんか」(『校本全集第十三巻』書簡〔255〕より)とか「あなたの家の山の岩も採って置いて見せてくださるなら…」(同〔339〕より)というその内容からも窺える。二人の信頼関係は極めて厚かった。それゆえに、賢治は澤里にだけは次のような想いを語っていたということが考えられる。「近々上京して先生について本格的にチェロを学ぶことにした」と。
 賢治大金五百二十円を懐に
 ここからはまた思考実験開始である。
 そしてその頃、賢治にはそれが可能となる原資も手に入った。
 さて、下根子桜時代の賢治の経済的基礎に関しては菊池忠二氏が『私の賢治散歩(下巻)』の75p~で詳しく既に論考しており、私がいまさら言及すべきことはないのだがこの「五百二十円」に関してだけ少しだけ私見を述べたい。
そもそも、下根子桜時代2年4ヶ月余の賢治は定収入などなく、臨時収入さえも同様に殆どなかったはずである。一体賢治はどのようにしてその時代の経済的基盤を維持したのだろうか不思議でならなかった。いくら清貧・粗食で過ごしたとはいえ、その時代に例えば少なくとも2回の上京・滞京
 ・大正15年12月2日~同月29日頃
 ・昭和3年6月6日~同月23日頃
さえもしているのだからかなりのお金が必要であったであろうことは想像に難くない。
 さてそれが、たまたま『新校本年譜』(筑摩書房)を眺めていたならば
六月三日(木) 本日付で、県知事あての「一時恩給請求書」が提出される。
<「新校本年譜」(筑摩書房)314pより>
とあり、その註釈によればこれは平成11年11月1日付岩手日報の記事に依るものだということを知った。
 その記事を実際に見てみると、その内容は次のとおり。
 宮沢賢治が大正十五年に三十歳で県立花巻農学校を退職する際、得能佳吉県知事(当時)に提出した「一時恩給請求書」一通と、添付した履歴書二通が見つかった。…(略)…
 文書提出の日付は大正十五年六月三日で、同年三月三十一日をもって稗貫郡花巻農学校教諭を退職したため一時恩給の支給を願い出ている内容。履歴書は大正七年四月十日稗貫郡の嘱託として無報酬で水田の土壌調査に従事したことから始まって花巻農学校教諭兼舎監を退職するまでの職歴、退職理由として「農民藝術研究ノ為メ」と記す。
 賢治の請求を受けて県は大正十五年六月七日に一時恩給五百二十円を支給する手続きをとった。これを裏付ける県内部の決裁書類も合わせてとじ、保管している。
 県総務学事課の千葉英寛文書公開監は「恩給は今で言う退職金であろう。…」
<平成11年11月1日付『岩手日報』23面より>
 まさか下根子桜時代に賢治が五百二十円もの大金を懐にしていたであろう時があったなどということは、今まで予想だにしていなかった。ところがこれだけのお金があれば話は違う。もしかするとこの大金が懐に入ったことが、清貧・粗食とはかけ離れた、吃驚するような大金を必要とする行動に結びついたのではなかろうかと想像できた。
 そこで想像を逞しくすれば、以下のようなことが言えないだろうか。
 一年の計「本年内セロ一週一頁」を立てて一生懸命独習してきたチェロだが、一向に上手くならない。やはり、東京でチェロの指導者について学ぶしかないのか、と次第に思い詰めるようになっていった頃の賢治に吉報が舞い込んだ。以前に申請していた「一時恩給(退職金)」大金五百二十円がやっと支給されるという。一年前の12月の約一ヶ月弱の滞京に際しては、父政次郎に大部金銭的な援助をしてもらっているからそれと似たようなことを再びすることは流石に気がひける。しかしこれだけの大金があれば、長期間滞京しながら、チェロの指導者に就いて本格的にチェロを学べる。せっかちな性向のある賢治だから矢も楯もたまらず、早速行動に移した。
 なお、賢治のせっかちな性向から逆に推測すれば、この大金が手に入ったのは昭和2年の11月頃だったという可能性が大である。
思考実験終了
 澤里はチェロを背負って花巻駅へ
 さて、賢治と澤里武治の二人は信頼の厚かった師弟関係だったし、「実のところをいうと、ドレミファもあぶなかったというのが…」と澤里が後に証言している訳だから、澤里は賢治のチェロの上達がはかばかしくないことに心を痛めていたに違いない。なぜなら、澤里は「羅須地人協会へは幾十回となくおたずねしました」(『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)223p)と証言しているから澤里はしょっちゅう下根子桜に行っていたことになり、一方では賢治は澤里にだけはチェロを触らせていたというから、賢治はしばしば澤里の目の前でチェロを弾いて見せたと思われるからである。
 さて次からはまた思考実験である。
 そもそも賢治の最高級のチェロは一年前に父に無心したあの「二百円」で誤魔化して購ったものである。ために、そのチェロは父には気付かれぬように下根子桜の別宅に置きながら一生懸命練習をしてきたが全く上手くならない。しかし、チェロが少しは上手くなりたいし、このまま独習していたのではそれは無理だということも賢治は覚った。
 なんとかせねばと思っていたところに、タイミング良く花巻農学校の退職金五百二十円が懐に入った。これだけの金があれば約三ヶ月間滞京しながらチェロを教えてもらえる。思い付いたならばすぐさま実行に移す天才賢治の性向を発揮して上京を決意。そして一方では、このときの上京は父政次郎に気付かれる訳にはいかない。まして、今年もまた「チェロを学ぶために少なくとも三ヵ月滞京したい」などとは口が裂けても言えない。
 ただし、最愛の弟子澤里にだけは知らせた。賢治は澤里だけを伴にしてそっと花巻駅へ行こうと思った。
思考実験終了
 いよいよ賢治がそれを決行した昭和2年の11月頃のある日は霙の降る日だった。その時の様子は以前に少し触れたように次のようなものであった。
 その霙が降る寒さの中を、賢治は身まわり品を詰めこんだかばんを持ち、澤里は黒いチェロのケースに紐をかけて肩に背負い、途中にある豊沢町の実家にも立ち寄らずに、二人はそっと羅須地人協会から花巻駅へ直行した。
 澤里一人賢治を見送る
 では今度は、「○澤」の次の部分についてである。
 その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
 もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村桜に羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待っておりました…(中略)…
 乗車されると、先生は窓から顔を少し出して、
『ご苦労でした。帰ったらあったまって休んでください。』
 そして、しっかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。汽車が遠く遠く見えなくなるまで、先生の健康と、そしてご上京の目的が首尾よく達成されることを、どんなに私は祈ったかしれません。
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
 この部分については既に検討したところであり、同じことを繰り返すことは避けたい。ただし、次の4点だけは確認しておきたい。
 まず一点目は、澤里はここでも12月とは言わずに重ねて「その十一月の…」と言っているということをである。前に一応「確かこの方が本当でしょう」と言ってはみたものの、澤里は心の底ではそう思っておらず自分の記憶の方が実は正しくて、あくまでもそれは11月であると確信していた、あるいはそう主張したかったのではなかろうかということが察せられる。
 二点目は、「上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました」という証言からは、この上京直前にも澤里はしばしば下根子桜に出入りしていたであろうということである。この証言はその直前の賢治の一生懸命な姿勢をしばしば見ていなければ語れない内容であるからである。なおこれは、以前にも触れた澤里の証言「羅須地人協会へは幾十回となくおたずねしました」(『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)223p)とも符合する。
 そして三点目は、今まではあまり気にも留めていなかったところだがそれは「そのみぞれの夜」である。もっと限定して云えば、下根子桜から花巻へ向かった時間帯は「夜」だったことである。これは、当日賢治は豊沢町にも立ち寄らなかったし、父にも気付かれたくなかったと前に判断したが、そのことを傍証している。この時間帯であれば、かばんを持った賢治とチェロ箱を背負った澤里の二人が駅に向かってもほぼ周りから気付かれる虞れはあまりない。当時の花巻は昨今と違って街灯がほとんどなかったはずだからである。
 最後の四点目は、この証言部分は具体的であり詳細であるし、以前にも述べたように澤里は信頼に足る人物と見ていいようだ
から、この「○澤」はほぼ事実を述べていると判断して良さそう
だということである。
 つまるところ、
◇霙の降る昭和2年の11月頃のある夜、父に見つからぬようにして下根子桜から花巻駅に行った賢治は、少なくとも三ヵ月間滞京してチェロの練習をすると決意して、一人澤里に見送られながら花巻駅を発った。
のであると。

4 3ヶ月間滞京
 では、「○澤」の残り
 滞京中の先生は、私達の想像することも出来ないくらい勉強をされたようです。父上にあてた書簡を見ても、それがよくわかります。…(中略)…
 手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
<昭和31年2月22日、同23日付『岩手日報』より>
について次に少しく考えてみたい。
 やはり約3ヶ月間滞京
 この証言からは、昭和2年の11月頃から「少なくとも三ヵ月は滞京する」予定だったチェロの勉強だったが、それは想像を絶するものだったということが分かる。
 昭和2年の年頭のにあたって賢治が立てた一年の計「本年中セロ一週一頁」だったが、計画どおり取り組んではみたもののその腕前は一向に上がらない。これではならじと思い立って昭和2年の11月頃、少なくとも3ヶ月間滞京しながらチェロの先生について本格的にチェロを習おうと決意して上京した。
 だが、滞京中毎日やっていたその学習は、最初はボーイングだけ、「右手」の勉強だけだった。そして次がやっと糸をはじくことであったということをこの証言は示唆している。とてもではないが「左手」の学習であるポジションの学習には達していなかったであろうことが推測される。
 おそらく澤里武治の証言「そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです」どおりだったのであろう。
 なんとなれば以前にも触れたように、チェリストの西内荘一氏(元新日本日本フィルハーモニー交響楽団主席チェリスト)でさえも
 遅く始めているからできないのは僕だけですし、指の骨が固くなってますから思ったようには弾けないし、いやになってレッスンに行かないことがあったり、食事も喉を通らず、体重が三十キロぐらいになってしまって、部屋にこもってただチェロばかり弾いているというような精神的にもおかしい時期もあったと思います。
<『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』(中丸美繪著、新潮文庫)156pより>
と述懐しているからであ。賢治の場合はなおさら推して知るべしである。
 となれば、澤里の証言
 先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
は否定できなかろうし、かつての『賢治年譜』はおしなべて
  昭和3年1月 …栄養不足にて漸次身體衰弱す。
とあったことはこの澤里の証言「お疲れのためか病気もされた」をまさしく裏付けていることになりそうだ。
 つまり、賢治は昭和2年の11月頃に上京して、「予定の三ヵ月」より少し早めに帰郷したと澤里は証言している訳だから、その帰郷はほぼ昭和3年1月頃となろうし、その頃の賢治はかつての「賢治年譜」で「漸次身體衰弱」となっていたのだから時期的にも見事に符合しているし、その身体症状も似ているからであるからである。
◇やはり賢治は昭和2年の11月頃に上京、その後約3ヶ月間滞京していた。
となるのではなかろうか。
 「現通説」の自家撞着
 ここまでの考察により、「○澤」全体もまた仮説「♣」を裏付け
ているということを私は確信した。また、この「○澤」をそのま
ま素直に用いれば多くのことを全く合理的に説明できるということも分かった。
 例えば、だから賢治は少なくとも「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃の間の約3ヶ月間」の賢治は詩を全く詠んでいなかったのだ。その約3ヶ月間、賢治はチェロを猛勉強をしていたがために多忙であり、詩を詠む余裕などはなかったからだ、というように。
 一方で、「○澤」は「現通説」の反例となっているのではなかろうかということにも気付かされる。「現通説」は「○澤」の一部を
使って構成されているが、「不都合な部分」には頬被りしているという指摘をされかねない。
 なぜならば、そのような部分
 ・少なくとも三ヵ月は滞京する。

 ・先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、  とうとう病気になられ帰郷なさいました。
については「新校本年譜」では一切の言及がなく、「現通説」ではほぼ無視されている。
 ところがこれを無視しないとなると「現通説」は矛盾を来し、
自家撞着現象を起こす。「○澤」に基づきながら、それによって「現
通説」自身の辻褄が合わなくなってしまうからであり、そのことについては先に説明したとおりである。
 私の最終結論
 さてここまで考察してきた結果、 
 「○澤」を典拠としているはずの「通説○現」だが、この証言に基
づく限り「通説○現」を含む現在の「宮澤賢治年譜」は自家撞着に
陥っているとしか私には思えない。
 やはり、この「○澤」等を素直に生かして合理的に推論すれば、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。                ………………♧
という結論に達せざるを得ないし、こう結論すれば他の証言や資料とも何ら矛盾を来さなくなる。これが現時点での私の最終的結論である。
 自説を修正したのか
 ところで、横田庄一郎氏は
 花巻駅まで賢治のチェロをかついで見送った沢里武治の記憶は「どう考えても昭和二年十一月頃」であった。…(中略)…だが、晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラ
ジオの番組でも「大正十五年」というようになっている。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)68pより>
ということを理由にして、霙の降る日にチェロを持って上京する賢治を澤里が一人見送ったのは「大正十五年十二月」のことであると判断している。
 ここで私は不安におそわれる。はたして澤里が晩年「大正十五年」と言っていたのは、自分の証言「どう考えても昭和二年十一月頃」が記憶違いであったことを晩年になって認めて修正したからなのだろうか、という不安にである。
 緘黙する澤里
 一方で、横田氏の前掲書には次のようなことも記されている。
 沢里は賢治を尊敬するあまり、先生を語る資格は自分にはないと思い詰めていた。あれほど目をかけてくれた賢治に都合の悪いことはいわない方がいい、と思っていたのかもしれない。しかし、沢里はその晩年に賢治の弟清六さんの許しを得てから、ありのままの賢治を話すことにしたという心境の変化があった。いたずらに美化し、祭り上げていくほうが、よほど問題だ。そういう賢治は敬遠されるようになるだけだし、裸の賢治は十分過ぎるほど人を魅きつけてやまない。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)116pより>
 このことに従えば、澤里はある時点から晩年のある時点までは賢治に関する発言を封印していたということになる。そういえば以前にも触れたことだが、澤里武治の長男裕氏が
 父は一般的には公の場で賢治のことをあれこれ喋るようなことは控えていた。
と私に教えてくれたことがあった。また同様に、板谷栄城氏が『賢治小景』が述べていた『「私にとって賢治先生は神様です!不肖の弟子の私に、神様を語る資格はありません!」と言ったきり口をつぐんでしまいます。』という澤里のエピソードを思い出してみれば、澤里が一時期緘黙していたのも宜なるかなと思う。
 それが再び賢治のことを澤里が語り出したのは宮澤清六の許しを得てからだということになる。ということは、単に「沢里は賢治を尊敬するあまり、…思い詰めていた」のではなくて、それ以外にも賢治のことを澤里が語ることを躊躇わせるものがあったということであろう。だから、澤里が後に語り出したということは、澤里の矜恃と気骨であったかもしれない。
 あまりにも理不尽
 さて、昭和31年に『岩手日報』紙上に連載された『宮澤賢治物語』において公に紹介された「○澤」であったが、それが昭和
32年に単行本として出版された段階ではこの証言は意味が全く逆になるように改竄されたということは以前に詳述したところである。
 心の底では、「どう考えても昭和二年十一月ころ」のことであったと確信していたと思われる澤里武治にしてみれば重ね重ねの衝撃であり、さぞかし忸怩たる思いであったであろう。
 そもそも、昭和2年11月頃ならば澤里は花巻農学校3年生の時であり、大正15年12月ならば同2年生の時である。多くの人の場合にそうだと私は思うのだが、ひと月やふた月のずれならいざ知らず、印象に強く残っている高校時代などのエピソードが何年生の時だったかということは峻別し易いものである。それゆえにこそ、澤里は「どう考えても昭和二年十一月頃」と言ったのであろう。つまり、「どう考えても」というこの表現こそが澤里のその確信をいみじくも物語っていると私には見える。
 ところが、その挙げ句、澤里は当時通説となっていなかった「宮澤賢治年譜」を基にして証言することを迫られた節がある。さらには澤里のその証言が後に彼のあずかり知らぬところで改竄されたりしていることを知ったならば、まさしく横田氏や板谷氏が伝えているように「沢里は賢治を尊敬するあまり、先生を語る資格は自分にはないと思い詰めていた」のも宜なるかなと私には思える。そしてそれからというもの澤里は賢治に関しては緘黙するようになったと私は推理する。
 したがって、なにも澤里は晩年になって自説を修正したという訳ではなくて、その頃には既に宮澤賢治の「通説○現」が定着して、霙の降る日にチェロを持って上京する賢治を一人澤里が見送ったという「事実」は大正15年12月2日のことであるとなってしまったので、万やむを得ずそうするしかなかっただけのことではなかろうか。まして、「先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました」という極めて重要な証言は、「現宮澤賢治年譜」にはどこにも書かれていないし、そのことはだれも問題にしなくなったからであろう。
 これほどまでに、自分の証言がある部分だけ使われてその他の一部は無視されたり、改竄されたりしたとなれば、いかな賢治の愛弟子の澤里でさえも不本意ながら緘黙せざるを得なかっただけのことではなかろうか。もちろんこれはあまりにも理不尽な話であり、私は澤里に同情を禁じ得ない。一方で、晩年になってからは、それが決して賢治のためではないと思って「ありのままの賢治を話すことにした」という彼の心境の変化は私にもよく理解できる、それは澤里のせめてもの賢治に対する敬意と自身のプライドであったと私は思うからである。
 一方、「通説○現」に対する柳原の心中も正直穏やかならざるものがあったであろうこともほぼ明らかであろう。しかし、同級生や恩師のことを思って、思慮深い柳原は「○柳」を胸に秘めたままであったということではなかろうか。
 H氏の単独担当
 ところで、『修羅はよみがえった』には次のようなことが述べられていた。
 そもそも旧校本全集第十四巻所収の年譜は、H氏(筆者による仮名化)の単独担当で、氏の多年にわたる努力、資料収集のつみかさね、「評伝」の刊行などの達成にもとづくもので…(中略)…
 新校本全集でも、基本的に<H年譜>が土台となっている。
 …(中略)…新校本全集は、H氏の記述を出来うる限り尊重しながら、出来るかぎりその出所出典を客観的に再調査・再検討し、さらに多くの新資料を博捜・校合してさまざまな矛盾点を解決し、解決しきれない事項は、本文から下段註へ移したり、場合によってはあえて削除して、出来る限り客観的に、信頼しうる年譜作成をめざした。
<『修羅はよみがえった』((財)宮沢賢治記念会、ブッキング)389p~より>
これを見た時、「そうか、やはりそういうことだったんだ」と私は膝を叩いた。仄聞していたことではあったが、これで「旧校本年譜」はH氏の単独編纂だったことが確認できたからだ。そしてなおかつ、H氏は「新校本年譜」の編纂については直接タッチしていないということもこれでわかった。
 だから、「新校本年譜」では
 ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を大正一五年のことと改めることになっている。
<「新校本年譜」(筑摩書房)326p~より>
という奥歯に物が挟まったような表現がなされ、奇妙な処理がなされていたのだということに私は合点がいった。あの澤里武治の証言を「旧校本年譜」であのように扱ってしまった責めの多くはH氏にあったのだ。最初はそう思った。
 そこで以前見たことがある「賢治年譜の問題点―H氏に聞く」を読み直してみた。するとそこには次のような「大正15年の年末の上京」に関するH氏自身の発言があった。
 あのとき、セロの猛勉強をしていますが、その詳しいことをこの年譜には入れていない。そのことも気になっています。
<『國文學 53年2月号』(學燈社)176pより>
 ということは、H氏自身も澤里の証言の使い方については気に掛けていたと言うことだろう。おそらくH氏の言うところ「セロの猛勉強」とは澤里が証言するところの「三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強」のことであり、あの三日間の特訓でないことは明らかだ(三日間では猛勉強とはとても言えない)。
 そしてH氏の「気になっています」の意味はおそらく、「澤里の証言の一部は使い他の一部は無視していることに呵責を感じている」という意味なのであろう。あるいは澤里に対してH氏は気が咎めていたということを正直に吐露していたということなのかもしれない。なぜならば、H氏には申し述べにくいことであるが、大正15年12月2日の「現通説」にはもともと澤里武治の証言を当て嵌めることはできないからであり、そのことに気付かぬH氏であるはずがないからである。
 ところがここまで推論してきて私はふと立ち止まらざるを得なかった。H氏一人だけを論うわけにはいかぬのだ、ということに思い至ったからだ。なぜならば、『岩手日報』紙上に載ったあの「○澤」のその後の改竄にH氏が直接関与などできる訳などないからである。
たしかに、次の二つ
・「新校本年譜」の中の、澤里の言っている「どう考えても昭和2年の11月の頃」を大正15年とすること。
・『宮澤賢治物語』の中の、「昭和二年には先生は上京しておりません」を改竄して「昭和二年には上京して花巻にはおりません」とすること。
はその狙いが似ているとは思うが、それぞれに携わっている立場が違うからである。
 とまれ、この改竄をした、あるいはその指示をしたX氏が誰なのかが私には現時点ではわからぬから、その人のことがある程度わからぬうちは少なくともH氏を論うわけにはいかない。
 せいぜい現時点で私が言えることは、仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。                ………………♧
は検証に耐えることができたのでこれは歴史的事実だと確信しているということである。そして言いたいことは、X氏はこの「歴史的事実」は賢治のイメージとしては「不都合な真実」であると思い込んでいたのであろうということである。

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 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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