みちのくの山野草

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『本統の賢治と本当の露』(24~27p)

2020-12-11 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




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 なお、このことに関しての『新校本年譜』の記載は、
   しかし音楽をやる者はほかにマンドリン平来作、木琴渡辺要一がおり
〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)314p〉
というように、推定の「あったようです」が「おり」と断定表現に変わっているとともに、「千葉恭」の名前だけがするりと抜け落ちている。そこで、どうして「賢治年譜」には恭だけが抜け落ちているのですかとイーハトーブ館を訪ねて関係者に訊ねたところ、「それは一人の証言しかないからです」という回答だった。もしそういうことであればそれは尤もなことである。
 ところで、そもそも「それは一人の証言しかないからです」というところの「一人」とは一体誰のことだろうかと思って調べ回ったところ、この楽団メンバーの記述を担当した人は阿部弥之氏であることを知った。そこで同氏に、「時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです」となぜ記述できたのかと問うと、
 あれですか、「時に、マンドリン・平来作、千葉恭」という証言は、私が直接平來作本人から聞いたものです。
とその根拠を教えてもらった。よってこれで証言者が確定した。賢治の身辺にいた教え子平來作であった。
 そこで次に私はその裏付けを取ってみようと思っていたので、実はそのためもあって、先に述べた平成22年12月15日に恭の三男滿夫氏に会いに行ったのであった。そして、同氏に「お父さんはマンドリンを持っていませんでしたか」と訊ねてみたところ、「はい持っていましたよ」という回答であった。さらに長男益夫氏からは、そのマンドリンに関する面白いエピソードまで教えてもらった。したがって二人の子息の証言から、前掲の「時に、マンドリン・平来作、千葉恭」という記載はほぼ事実であったと言えるだろう。それは、当時岩手でマンドリンを持っていた人は珍しかったはずだからなおさらにである。
 これで、「恭は件の楽団の一員であり、マンドリンを担当していた」ということについてのかなり確度の高い裏付けを私は取れた。つまり、「当時身辺にいた」(16p)教え子の平來作が、「恭は「羅須地人協会時代」に下根子桜の別宅に来ていた」ということを実質的に証言していたことになり、これはほぼ事実であったと判断できた。もちろん、こう判断できたのも恭の二人の子息の証言等があったからであり、これで、『拡がりゆく賢治宇宙』の「時に、マンドリン・平来作、千葉恭」という記載については、「それは一人の証言しかないからです」という理由によって棄却することはできなくなったし、逆にその信憑性は極めて高いものとなったと言える。したがって、賢治が設計したと言える前掲の3枚の〔施肥表A〕と、この平來作の証言によって、恭の下根子桜での宮澤家別宅寄寓が客観的にも裏付けられたと言えるだろう。

 ㈡「羅須地人協会時代」の上京について
 どうやら賢治は東京が大好きだったようで、大正15年に花巻農学校を辞して「下根子桜」に住まっていた時代、いわゆる「羅須地人協会時代」の約二年四ヶ月の間にも何度か東京へ行っていたという。比較的はっきり分かっているものとしては、大正15年12月2日からの約一ヶ月間の滞京と、昭和3年6月の18日間ほどのそれがあろう。
 ところが今まで誰一人として公的には指摘していないし、なおかつ基本に忠実に調べれば容易に気付けることだと私は思っているのだが、前者の典拠がかなり危ういということを実証できた。さらには、これらの他にもこの時代に約三ヶ月間に亘る長期間の滞京を賢治がしていた蓋然性が極めて高いということも示すことができた。それはとりわけ、去る平成28年10月17日、「父はこれを書く際に相当悩んでいた」と付言しながら子息の裕氏が私に見せてくれた、澤里武治が74歳頃に書いたという自筆の三枚の資料(この資料はこれまで公になっていないはずだ)によってだ。
 もう少し具体的に言うと、その中の一枚〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟には、
 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり   (傍点筆者)
という記述があり、年は「大正十五年」と書いてあったものの、その月が定説の「12月」ではなくて「11月」のままだったからである。さらに、もう一枚の〝(その三)「附記」〟の方には、
 関徳弥氏(歌集寒峡の著者)の来訪を受けて 先生について語り写真と書簡を貸し与えたのは昭和十八年と記憶しているが昭和三十一年二月 岩手日報紙上で氏の「宮沢賢治物語」が掲載されその中で大正十五年十二月十二日付上京中の先生からお手紙があったことを知り得たのであったが 今手許には無い。
と書かれていて、実は「大正15年12月12日付澤里武治宛賢治書簡」があったのだがこれが行方不明になっているという。しかも、この書簡内容も、その存在自体すらも公には知られていないことだ。ならば、同時代の上京に関して再検証をせねばならないと私は思ったのだった。そこで以下にその検証をしてみる。
 まず、いわゆる『新校本年譜』の大正15年12月2日の項についてである。そこには、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた(*)。
〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)325p〉
と記載されていて、賢治がこのような上京をした霙の降る寒い日は「大正15年12月2日」であったというのが定説となっている。
 ところが、この〝*65〟の註釈について同年譜は、
関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
と、その変更の根拠も明示せずに、「…ものと見られる」とか「…のことと改めることになっている」と、まるで思考停止したかの如き、あるいは他人事のような註釈をしていたので私は吃驚した。
 そこで次に、〝関『随聞』二一五頁〟を実際に確認してみると、
 沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(筆者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。

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           〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
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