みちのくの山野草

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思考実験(『宮澤賢治物語』の改竄)(後編)

2019-04-11 14:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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〈承前〉
 まず、前回の一部〝①~③〟を確認しておく。
・かつて私は「宮沢賢治素描」という本を書いたが、今読んでみるとあまり簡略すぎて、読む人に果たして了解してもらえるかどうかという不安をもつている。そこで、それらの素材をもう一度丹念に改めてみたいと思う。………①
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月20日発行)>
確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。…(略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「澤沢里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。
……②
<『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和23年2月5日発行)
どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。…(中略)…その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。………③
<『宮澤賢治物語(49)』(昭和31年2月22日付『岩手日報』>
 これで準備はできたので次からは思考実験を試みる。

 思い返せば、M氏は『賢治随聞』の「あとがき」であのような「改稿」理由を挙げてはいたが、その裏には次のような隠された事情があったのである。それを時の流れに沿って以下に説明する。
(1)  まずは、昭和23年以前に澤里武治は関登久也から聞き取りを受けて、
    「確か昭和2年11月頃の霙の降る日にチェロを持って上京する賢治をひとり見送った
という意味のことを答えた。これが②に当たる。
(2)  次に、この聞き取り「澤里武治氏聞書」を所収した『續 宮澤賢治素描』が昭和23年2月に出版された。この出版により、その滞京中の三ヶ月間にわたるチェロのはげしい勉強で賢治は遂に病気になって帰郷したことが公に知られることになった。
(3)  同時にこの頃ある人物X氏はこの滞京の事情が広まることを憂慮した。このようなことが「羅須地人協会時代」の賢治にあったということになれば賢治のイメージにふさわしくないので、この滞京はなかったことにしようとX氏は動き始めた。
 そこでまずは手始めに、それまでは殆どの「宮澤賢治年譜」には記載のあった昭和2年9月の上京(昭和2年 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作すを「宮澤賢治年譜」から削除しようと思い始めた。併せて昭和3年1月の「…栄養不足にて漸次身體衰弱す」も同様に
(4)  その後、『續 宮澤賢治素描』出版から約8年を経た関登久也は、前掲①のような理由から『正・續宮澤賢治素描』を丹念に改めた内容の著作を再び世に伝えようと思って、昭和31年1月1日~6月30日の『岩手日報』紙上に『宮澤賢治物語』を連載した。その連載のうち昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(49)』「セロ一」の中に上掲③が述べられていた。
(5)  ②と③は同じ時のことを言っている訳だが、『續 宮澤賢治素描』では問題にならなかったこの「昭和2年11月頃」について、新聞連載の時には問題が生じた。この際に澤里が基にして証言しなければならなかった「宮澤賢治年譜」はX氏からこれが正しい年譜だと言われて提示されたもので、それには昭和2年の賢治の上京はないことになっていたものだったからである。
(6)  それゆえ、澤里武治はそのことを訝しく思いながら、さりとて自分の記憶「昭和2年11月頃」には自信があるから、『續 宮澤賢治素描』では「確か昭和二年十一月頃」であった部分を『宮澤賢治物語(49)』では「どう考えても昭和二年十一月ころ」という表現にした。
 そこで、X氏は慌てた。この『宮澤賢治物語(49)』を読んだ読者の中には、澤里が妙な「宮澤賢治年譜」を基にして証言させられていることを敏感に察知した人物が居るのではなかろうかという不安に襲われたからだ。つまり、
 どう考えても賢治は昭和2年に上京しているはずだと澤里は思っているのに、澤里が見せられた「賢治年譜」には従前の年譜と違って「昭和二年には先生は上京しておりません」というものになっていて変である。
ということを、マスコミを通じて結果的に澤里は指摘したことになったと言える。
(7)  そこへもってきて、昭和32年にはこの新聞連載が単行本として出版される運びとなったのでX氏はさらに困惑した、この『単行本』化を避ける手立てはなかったからである。
 地方紙『岩手日報』の連載の場合であれば、この澤里のこの指摘を読者は気付いてもその人数は限定的である。しかし単行本となればそれは違う。かなり多くの人が読む可能性が高いはずだから何とかせねばとX氏は思い悩んだ。
(8)  ところが何と、その上梓直前に関登久也が急逝した。そこでX氏は大胆にも改竄という行為に及んだ。当の本人が亡くなったので、後事を頼まれた人物に近づき、
   ・昭和二年には先生は上京しておりません。

   ・昭和二年には上京して花巻にはおりません。
と書き変えたのである。もうこのように書き変えれば、単行本で読んだ人は一体澤里武治は何と言いたかったのかを読み取れなくなってしまうから、取り敢えずカムフラージュはできるとX氏は考えた。
 事実私がそうだった、何を言いたいのかそこからは読み取れなかった。おそらく、単行本『宮澤賢治物語』で初めて読む人は皆同様で、澤里のこの大切な指摘はぼやけてしまって、X氏の思惑通りカムフラージュされるであろう。
(9)  さらには、昭和45年頃になると『校本宮澤賢治全集』出版の動きが始まったので、その全集所収の「宮澤賢治年譜」の資料として『宮澤賢治物語』が使われることをX氏は恐れた。X氏は改竄に関わっていただけに後ろめたさを抱いたからだ。
(10)  そこでX氏はM氏に『賢治随聞』の出版を慫慂し、併せて『校本全集』の「宮澤賢治年譜」の資料としてはこの『賢治随聞』に基づくようにと関係者に勧めた。
(11)  さらには念を入れて、M氏はその「あとがき」に「願わくは、多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい」と書き添えた。
 これで「改竄」したという事実もほぼ葬り去ることができるだろうと安堵した。まさか、元々の昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮沢賢治物語(49)』にまで遡って確かめるような奇特な人はいないだろうから、と。
〈思考実験終了〉
 ただしこれはあくまでも理論上だけの話である。これが歴史的事実であった等ということを私は主張するつもりはない。
 「三か月は滞在する』の無視
 以前にも触れたように、賢治大正15年12月2日の「現定説」
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。 ……………○現
<「新校本年譜」(筑摩書房)325pより>
は「旧校本年譜」担当者B氏が「沢里武治氏聞書」(関登久也著『賢治随聞』所収)を元にして要約、編集したということのようだ。
 ところがもしそうだとするならば、実は「沢里武治氏聞書」では「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」となっているのだから定説「○現」の中の「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」の部分はこれと同じでなければならない。しかし、不思議なことに定説「○現」からは賢治が言ったはずの「少なくとも三か月は滞在する」の部分がどういう訳かスポッと抜け落ちているのである。
 さらには、その「沢里武治氏聞書」の中で澤里は、
 そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。……○三
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
ということにも言及しているのだが、この「○三」に関しても現在定説となっている「宮澤賢治年譜」では一切触れられていない。「沢里武治氏聞書」を典拠にしていながら、
(ア) 「少なくとも三か月は滞在する」と証言しているのにそこは削除され、
(イ) 「○三」については一切無視されている。
 しかしどう考えてもこうなる理由が私に見つからず、それにしても不思議なことが多いものだと戸惑うばかりである。それゆえ、これほどにまでこだわって定説「○現」のような書き方をしなければならないほどの、何かそこには読者には知らせられない理由でもあるのだろうかと、正直思ったりもしたくなる。
 疑うことから見えてくる
 いや待て、そのような浅ましい見方は止めよう。それよりは、学問の始まりは疑うことから始まるというではないか、ここはそれこそ疑ってみよう。というわけでここからは、そのための思考実験の始まりである。
(ア) について
 なぜこのようなことが起こったのか。それは単純に考えればたまたま見落としてしまった、ということがまず考えられる。とはいえ、まさかそのようなことを年譜担当者のB氏や関係者が起こす訳はない。『校本全集』と銘打つ以上、関係者は厳密な校合をせぬ訳がないからである。
 とすれば、この「削除」という行為は意図的に行われたということになろう。その理由は現時点では私にはしかとはわからぬが、大正15年12月に、チェロを持って賢治は上京したとは誰も証言していないのに「現定説」では「セロを持ち」とされていることと相通ずるものがあるということは明らかであろう。
(イ) について
 なぜこの「○三」が無視されているか。それはもしこの部分があれば「あれっ、それじゃ大正15年12月2日の上京の際に賢治は3ヶ月間滞京していたのではなかろうか」という疑いを読者から持たれる。一方で、「○三」であったということであれば、羅須地人協会時代の賢治像にとってそれはダメージが大きすぎるからこのことだけは何とか避けたいとある人物、X氏は思い悩んだ。
 そこで彼は実際「少なくとも三か月は滞在する」の部分を故意に「賢治年譜」から削除し、併せて「○三」も無視した。これで「賢治年譜」の大正15年12月2日は例の定説「○現」で定着する、とX氏は胸をなで下ろした。
〈思考実験終了〉
 なお以前同様、これが歴史的事実であったなどと言うつもりはもちろんない。あくまでも単なる私の思考実験である。言い換えれば、一つの可能性を探ってみたということである。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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大津三郎レッスンとの関り (ギトン)
2020-12-09 12:15:58
数々のご論考をいつも興味深く拝見させていただいております。
1927.11.賢治上京説(沢里旧証言)は私も信ぴょう性が高いと感じます。同証言を信憑するかぎり、滞京期間は「3か月」より少し短い期間、したがって1928年1月中まで東京にいたことになります。
他方、大津三郎・つや子夫人証言によると、「3日間のチェロ・レッスン」時期は、27年3月、同年6月以降が考えられます。①27年11月とすれば、上京後先ず大津氏の手ほどきを受けたあと自習。②28年1月とすれば、(素人の在京知人の指導で)自習したあと、最後にプロの大津氏のレッスンで仕上げ。尾崎証言や、大津氏の「礼状小包」のやりとりも勘案すると②の可能性が高いのではないでしょうか?
https://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=537 https://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=533 https://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=534 
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ご訪問いただきありがとうございます (ギトン 様へ)
2020-12-09 16:37:39
ギトン 様
 この度はコメントありがとございます。
 私は澤里の証言通りに、昭和2年頃から3ヶ月弱賢治はチェロマスターのために滞京していたと思っております。誰も主張していないことなので寂しく思っていたのですが、この度、ギトン様も同じようなお考えをなさっていることを知り、ホッとしております。
 なお、私は「3日間のチェロ・レッスン」につきましては、大正15年12月末の帰花直前もありうるのかなとも思っております。
                   鈴木 守  
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