〈『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』〉
では今回は、松田甚次郎の農村婦人愛護運動に関してである。具体的には、「農村婦人愛護運動――住井すゑ・奥むめお・増子あさとの交流」という項(ちなみに、『土に叫ぶ』の中にもこれに対応する章「 五 婦人愛護運動」があり、そこからも確認できる)からであるのだが、
住井すゑと初めて会ったのは…投稿者略…昭和六年、東京小金井の浴恩館での青年団指導者講習会に出席した折、松田から訪ねたのだった。このとき奥むめおをも訪ねている。松田が、いかに農村婦人問題に関心を寄せていたかがうかがわれる。
〈『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』76p〉ということである。
ということは、甚次郞は昭和6年に住井を訪ねているわけだから、安藤玉治は、
当時、住井夫妻は農民文芸運動の闘士であり、その作品も言動も当局ににらまれていた。松田がそれを知らないはずがない。思うに、松田は、一つのイデオロギーにこり固まるといった性格の人ではなく、開かれた精神の持ち主だった…投稿者略…。
〈同76p~〉と見ていた。
もちろん、住井夫妻とは、犬田卯(しげる)と住井すゑ夫妻のことである。そこで私は、この「松田がそれを知らないはずがない」という記述にハッとした。それは、あの「訪問応諾ドタキャン事件」のことである。やはり、
賢治は当初白鳥省吾の訪問には応諾したのだが、その後白鳥と一緒に犬田も訪問してくるということを知ったので、それをドタキャンした。
という蓋然性がさらに増したと私には思えたからだ。話が横に逸れてしまった。元に戻そう。こんなことも書いてあった。
住井は翌七年、鳥越に松田を訪ね、村の夫人を前に「新しき農村婦人」と題して熱烈な講演をしている。その後長く二人の交際は続けられた。中でも住井すゑの紹介によって松田のもとにいたり、永く村塾で塾生の姉とも、母親役ともなった産婆先生こと増子女史…投稿者略…
〈同78p〉つまり、住井のお蔭で増子あさ(後の伊藤あさ)が新庄にやって来て、村塾で活躍したということである。
ちなみに、『月刊 すばらしい山形』(1991年12月号、相沢嘉久治編)によれば、
村塾は、その後、造築したり畜舎を建てたりして整備され、一年間通しての長期講習に踏み切った。村塾の名声は次第に広まり、入塾希望者は県外からも集まった。この中の一人に茨城県から来た増子あさがいた。あさは、住井すゑから教えられて村塾に来たが、甚次郎や塾生と共に真っ黒になって働いた。また、助産婦の資格を生かして、村に「出産相扶会」を組織し、女性の健康やお産のことを指導した。その働きぶりはいまも村人の語り草になっている。彼女は一時村塾を離れるが、再び鳥越に帰って村の人と結婚し、生涯をこの地で送った。
ということである。増子あさの献身ぶりがいかに評価が高くされ、村民から感謝されたかということが容易に想像できる。さらに、
奥むめお女子もまた松田の訪問を受け、その純粋な愛郷運動に共鳴し、その後鳥越を訪ねて、都会生活者とは異なる農村婦人の問題の種々相を、松田の案内でつぶさに見て歩いている。
〈『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』78p〉ということである。
畢竟するに、松田甚次郎の「婦人愛護運動」は本格的なものであり、徹底したものであったかということであり、あの当時ここまで進んだ考え方を持っていた甚次郞に、流石は甚次郞、と私は敬服するしかない。
そして同時に、当時の賢治は「婦人愛護運動」に対してはどんな取り組みをしていたのだろうか、という疑問がよぎった。そのようなことをしたという事実を私はいまのところ一つも知らないからだ。
続きへ。
前へ 。
“「松田甚次郎の再評価」の目次”へ。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
《新刊案内》
『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(「露草協会」、ツーワンライフ出版、価格(本体価格1,000円+税))
は、岩手県内の書店で店頭販売されておりますし、アマゾンでも取り扱われております。
あるいは、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
☎ 0198-24-9813
なお、目次は次の通りです。
そして、後書きである「おわりに」は下掲の通りです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます