みちのくの山野草

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大迫の「風の三郎」伝承

2015-10-16 08:00:00 | 賢治渉猟
《↑ 外川目地区(抜粋)》(平成27年10月8日撮影) <「大迫賢治マップ」(早池峰賢治の会)より>
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて、先の「大迫外川目行」の目的は、『宮沢賢治と大迫・早池峰山』の30pに
 …風の強い日、外で遊んで泣いている子どもたちに向かって、母親たちは叫んだ。「風の三郎にさらわれるぞ。早ぐ家の中さ入れ」……①
と述べられているような「風の三郎」伝承が、賢治の童話「風の又三郎」の「谷川の岸の小さな学校」のモデルになったとも言われている校舎「火の又分教場」「沢崎分教場」がかつてあったという外川目地区でもはたしてあったのか、ということを確認したかったからである。

 しかし、地元のご年配の共に80歳前後のご夫婦二組に直接、
  『かつてこの辺りでは、「風の又三郎」ではなくて「風の三郎」の伝承がございませんでしたか
と訊ねてみたところ、どちらの場合も
  『知らないですね
という答だった。となれば、どうやらこの辺りではこのような伝承はなさそうだと考えられるのだが…。
 そこで今度は、帰途大迫図書館にも立ち寄って、そのような伝承があるのでしょうかとお訊ねしたところ三人がかりで調べてくれたが、そのようなことが活字になっているもは見つかりませんでした、ということであった。
 したがって外川目も含めて大迫では、『宮沢賢治と大迫・早池峰山』の著者が述べている〝①〟のような「風の三郎」伝承は裏付けが取れなかったので、現時点では〝①〟を一般化はできそうにない。

 一方で、たとえば山梨には、地元の人々から八ヶ岳に棲むと信じられてきた「風の三郎」と呼ばれる風の神を祀った「風の三郎社」があり、それを保阪嘉内が明治44年にスケッチしているから「風の三郎」伝承が当地にあったと判断できる。また、それは山梨のみならず福島・新潟・長野にもあるというが、少なくとも、
    岩手県や新潟県など複数の地方において、風の神を「風の三郎様」と呼んで祭礼を行う風習がある。
と断言した記述の中の「岩手県」分に対しては私は肯んずることができない。なぜならば、実際外川目地区のご老人ご夫妻二組に訊いてみても、大迫図書館で調べてもらっても〝①〟のような伝承が残っているということは確認できなかったし、私自身も今まで岩手にそのような伝承があったということは聞き及んではいないし、唯一〝①〟にこの度出くわしたわけだが、それを裏付けることは現時点ではできずにいるからでもある。

 ということからは、賢治の「風野又三郎」や「風の又三郎」が「風の三郎」伝説を元にして書き始められたというのであれば、それは賢治が保阪からあの風雷神祠のスケッチを見せられ、その伝承を聞いたからだということが一番蓋然性が高いであろう。
 まして、この保阪のスケッチブックに描かれている
【ハーリー彗星之図】

              <『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)より>

【下書稿(六)に描かれた岩頸列のペン画」(抜粋)】

              <『校本 宮澤賢治全集 第五巻』(筑摩書房)より>
に、そしてまたやはり保阪のスケッチブックの
【電信柱の絵】

              <『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)より>

【無題(月夜のでんしんばしら)】

              <『宮沢賢治の世界展』(朝日新聞)より>
によく似ているから、なおさらにである。そういえば賢治の記憶力は抜群だから、この保阪嘉内のスケッチブックの中のこれらのスケッチは賢治の頭の中にずっと残っていたということも考えられるしな…。

 おっと、これはちょっと強引過ぎたかな。でもそれは、前掲の【電信柱の絵】の付記に
 保阪嘉内がスケッチ帳に描いた水彩画。「電信柱」は嘉内と賢治にとっては二人の友情を表す象徴でもあり共に短歌に詠っている。「電信柱」のモチーフは賢治童話の「月夜のでんしんばしら」「銀河鉄道の夜」まで影を落としている。
とあるように、私だけがそう思っているわけではないようだ。なおかつ
 スケッチに描かれた風神の祠は、
【風雷神祠】

地元の人々から八ヶ岳に棲むと信じられてきた「風の三郎」と呼ばれる風の神を祀ったものであり、『風の又三郎』を連想させるものである。
とも述べられているから、それほど強引でもないようだ。

 そしてそもそも「風野又三郎」の〝九月四日〟の章の「サイクルホール」に関わって、
 十人ぐらゐでやる時は一番愉快だよ。甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ヶ岳の麓の野原でやすんでたらう。曇った日でねえ、すると向ふの低い野原だけ不思議に一日、日が照ってね、ちらちらかげろふが上ってゐたんだ。
というように、「八ヶ岳に棲むと信じられてきた「風の三郎」」を彷彿とさせる記述がずばりあるから、やはり、少なくとも童話「風野又三郎」の創作に関しては保阪の強い影響を否定できなさそうだ。なんとなれば、当時はインターネットがあったわけでもなく、山梨等に伝わる「風の三郎」伝承を賢治が知ることは難しかったであろうし、大迫を含めて岩手にもそのような伝承はなかったとほぼ判断できるから、消去法からいっても、保阪のあのスケッチなどの影響を否定できないであろうからである。

 後々、「平成27年9月19日は一度議会制民主主義が死んだ日だった」と歴史から裁きを受けるでしょう。

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