みちのくの山野草

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おかしいことはやはりほぼおかしい「賢治通説」

2015-10-20 08:30:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
おかしいなと思ったことはやはりいずれもおかしい
 今から約五十年程前のことだが、一人の恩師があることを私達の前でぼやいた。その恩師とは、宮澤賢治の妹シゲの長男岩田純蔵先生であり、当時私が学んでいた大学に教授として招かれ、私はその講座の学生であった。では、恩師は何と言ったのか。それは、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私は色々なことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋られなくなってしまった。
というような意味のことであった。
 当時私の尊敬する人物は他ならぬそれこそ賢治であり、賢治の甥の一人である恩師のこの一言はとても気になっていたのだが、そのことを調べる時間的な余裕はなかった。それが今から八年程前に定年となり時間の余裕が生じたので少しずつ賢治のことを調べ始めた。すると、常識的に考えればこれはおかしいという点がいくつか見つかるのだった。

(1) 初めてこれはおかしいと思ったのが、「賢治年譜」の大正15年7月25日の記載、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は協会に寝泊まりしていた千葉恭で六時頃講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
              <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)>
だった。それはもちろん、常識的に考えれば、
    そうなると羅須地人協会時代の賢治は「独居自炊」とは言い切れないのではなかろうか。
のではなかろうかという疑問が湧いたからである。そして、やはりそうだったということを私は実証し、そのことを平成23年に拙著『賢治と暮らした男-千葉恭を尋ねて-』で公にした。
 そして一方で、これが恩師がぼやいていたことの一つの具体的な現れなのも知れないと直感すると共に、もしかすると私はパンドラの箱を開けてしまったのではなかろうかという不安と虞を抱いたのだった。

(2) 次におかしいと思ったのが大正15年12月2日の記述に関してだ。そこには、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
              <『新校本年譜』(筑摩書房)より>
と記載されており、この註釈に、
関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
               <『新校本年譜』(筑摩書房)より>
とある。そこで、「関『随聞』二一五頁」つまり、関登久也著『賢治随聞』(角川選書)の215頁を見てみると次のようになっている。
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…(中略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました
              <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
 しかしこの年譜の12月2日の記述が澤里武治のこの証言に従っているのだとすれば、常識的に考えれば年譜のあちこちにほころびの生ずることに私はすぐ気付く。もともと、この注釈の「…大正一五年のことと改めることになっている」という言い訳自体おかしいがそれは措くとしても、この澤里の証言の中の「少なくとも三か月は滞在する」も「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」が「賢治年譜」に一切反映されていないことからしても「賢治年譜」はおかしいということにすぐ気付くからである。
 そこで私は、この矛盾を解消できる仮説を立てて、それが検証できたのでそれを平成25年に拙著『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』にて公にした。
 やはり恩師がぼやいていたとおりだということを私はうすうす覚った。

(3) そして、次は昭和3年8月10日の記述がおかしいということに気付いた。なぜならば、それまで賢治関連のことを調べた来たことにより、特に阿部晁の『家政日誌』に当時の天気が書いてあったことを見つけたので、多くの「賢治年譜」に、
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す
             <「賢治年譜」(『宮澤賢治研究』(十字屋書店)所収)より>
とあるような「風雨」は、当時なかったことを知ったからだ。その結果、実はその真相は、たしかに健康上のこともないわけではなかったであろうが、それよりは、当時岩手では凄まじい「アカ狩り」があったのでそれに対処するために賢治は下根子桜から撤退し、豊沢町の実家で蟄居・謹慎していたということを私は実証できたから、平成25年に『羅須地人協会の終焉-その真実-』で公にした。
 もはやこの時点になると、恩師のぼやいていたことはこのようなことだったのだということ私はを確信していた。

(4) となれば、いわゆる「高瀬露悪女伝説」も然りだろうということをもはや私は疑わなかった。それまでに賢治のことをあれこれを調べてきて、例えば、このことに関連して賢治の奇矯な行為がいくつか伝えられているというのに、露一人だけが悪女にされ、賢治が何一つ責められていないというアンフェアな扱い方がされていることを知れば、これはまず間違いなく捏造だろうと直感できたからだ。そして実際検証してみたところ、それは捏造の流布であったということを私は実証できたので、平成27年に拙論「聖女の如き高瀬露」として上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』で明らかにした。
 なお、このことに関しては〝羅須地人協会時代〟において論考「「賢治伝記」の虚構―捏造された<高瀬露悪女伝説>―」を連載し始めたところでもある。

 以上のことを通じて、とりわけ「賢治伝記」に関しては
 常識的に考えておかしいと思ったところは実はいずれもほぼおかしい。
と言えるということを私は断言してもほぼ間違いないということを知った。そしてこのようなことが、私の恩師が
 実は私は色々なことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋られなくなってしまった。
とぼやいた「色々なこと」の具体例なのだと私は合点した。

 そして、そのとても大きく重要なことの一つとして賢治の来簡がないということがあるが、それは次回へ。

 後々、「平成27年9月19日は一度議会制民主主義が死んだ日だった」と歴史から裁きを受けるでしょう。

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2 コメント

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受賞おめでとうございます。 (大内 秀明)
2015-10-20 10:39:53
 岩手芸術祭の受賞おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。内容も、貴兄らしい緻密な検証で、敬服しました。
 また、今日は全体のまとめで、参考になります。まとめて頂くと、当時の異常な世相の中で、賢治の天才的な、これまた異常な個性が共振し、加えて真実を隠そうとするため、ますます「不都合」になるのでしょう。
 今後とも宜しく。
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お陰様でです ((大内様(鈴木))
2015-10-20 13:36:51
大内 秀明 様
 いつもありがとうございます。
 この度はお陰様で入賞いたしましたが、「優秀賞」でもなくあくまでも「奨励賞」ですのでお恥ずかしい限りです。
 さりながら、
・賢治が松田甚次郎に贈った『春と修羅』が再発見され、そこには賢治の詠んだ詩とおぼしき詩が書いてあった。
という意味のことを初めて公的に印刷物上で明らかにできることとなったことには、多少意味があったかなと満足しております。

 それから、今回まとめみたいなものをアップいたしましたが、それはこの拙ブログへの投稿は近々封印しようと思っているからです。
 数日中に
   「賢治の来簡がないということ」
についてアップしましたならば、それを当面拙ブログの最後の画面とし、そのことを訴え続けようと思っているからです。なおその後は、他のブログで投稿したいと思っております。
                                                              鈴木 守
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