みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第五章 昭和6年の場合(テキスト形式)

2024-03-16 12:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
第五章 昭和6年の場合

 また持ち上がった賢治とちゑの結婚話
 ここからはいよいよ昭和6年に入る。
◇憤怒の〔聖女のさましてちかづけるもの〕
鈴木 それでは、「昭和6年」分については賢治の〔聖女のさましてちかづけるもの〕がその中心となりそうだが、いよいよ始めるとするか。
荒木 そもそも、その〔聖女のさまして云々〕とはどんな詩なんだ?
吉田 それは、『雨ニモマケズ手帳』にこのように書かれていて、実際文字に起こしてみると次のようになる。
  10・24
 ◎ 聖女のさまして
       われにちかづき
           づけるもの
   たくらみ
   悪念すべてならずとて
   いまわが像に
        釘うつとも
   純に弟子の礼とりて
   乞ひて弟子の礼とりて
           れる
   いま名の故のに
          足を
            もて
   わが墓に
   われに土をば送るとも
   あゝみそなはせ
   わがとり来しは
   わがとりこしやまひ
   やまひとつかれは
      死はさもあれや
   たゞひとすじの
       このみちなり
           なれや
 <『校本全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』  
(筑摩書房)より>
荒木 それにしても、書いては消し、消しては書きと何度も書き直しているところからは賢治の葛藤や苛立ちが窺えるね。
吉田 内容的にもまた然りで、相手に対しては「悪念」というきつい表現を用いようとしたり、その人を「乞ひて弟子」となったと見下ろしたり、「足をもて/われに土をば送るとも」というようにどうも被害妄想的なところがあったり、一方自分のことは「たゞひとすじのみち」を歩んできたと高みに置いているところもあったりのこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕から浮き彫りになってくる賢治は、女性から言い寄られた男のそれではなくて、虚勢を張っている男ともとられかねない。
鈴木 それから「あゝみそなはせ」とあることからは、賢治はこの相手の女性のことを以前はかなり評価していたということも言えそうだ。
荒木 にもかかわらず、そのような女性に対して「悪念」という言葉を賢治が使おうとしたとはな…それも詩においてだぞ。今まで抱いてきた賢治のイメージからは程遠い詩だ。おそらく、この詩を詠む直前に賢治にはよっぽどのことがあったんだべ。
吉田 それにしても、昭和2年の夏頃から賢治は露を拒絶するようになったということのようだが、それから約4年以上も時が経ってからもなお、佐藤勝治が「彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」と表現する((註二))ような詩、〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠む賢治の心理が僕にはわからん。いくら何でもこれだけの長期間怨念を持ち続けることは普通の人にはできんだろう。
鈴木 常識的にはあり得ない。だから逆に、さっき荒木が言ったように、その直前にはおそらく我々には及びもつかないような劇的な出来事が賢治に起こっていともた考えられる。
吉田 実は、この〔聖女のさましてちかづけるもの〕とよく似た詩も賢治は詠んでいるんだ。
荒木 それはまたどんなだ?
吉田 それは「文語詩未定稿」の中の〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕というもので、これもまた「憤怒」の詩といえる。しかも『宮沢賢治必携』によれば、詠んだ時期が〔聖女のさましてちかづけるもの〕とも時代的にも重なっている。
 そこでこれらの二つの詩と、例の「昭和6年」のものと考えられる関徳弥の『短歌日記』の10月4日、同6日のこと等を時系列に従って並べてみれば
昭和6年9月28日:賢治東京で発病し、花巻に戻って病臥。
 同 年10月4日:「夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話」
 同 年10月6日:「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」
 同 年10月24日:〔聖女のさましてちかづけるもの〕
  推定同時期 :〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕
同 年11月3日:〔雨ニモマケズ〕
となる。
鈴木 今までは、この10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕の詠まれ方があまりにも不自然だと思っていたが、こうやって並べてみる何かが少し見えてきたような気がする。このような「憤怒」の詩をほぼ同時期に二つも賢治は詠んでいたようだから、賢治は余程この女性に対して腹立たしくて、苦々しく思っていた可能性が大だ。
◇「変節」してしまった賢治
吉田 そこでだ、僕はこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕が詠まれるに当たっては、実はある伏線があったと思うんだ。
荒木 それはまたどんな?
吉田 それは佐藤隆房が次のようなことを述べていて、
 賢治さんは、突然今まで話したこともないやうなことを申します。
「實は結婚問題がまた起きましてね、相手といふのは、僕が病氣になる前、大島に行つた時、その嶋で肺を病んでゐる兄を看病してゐた、今年二七、八になる人なんですよ。」
 釣り込まれて三木君はきゝました。
「どういふ生活をして來た人なんですか。」
「なんでも女學校を出てから幼稚園の保姆か何かやつてゐたといふことです。遺産が一萬圓とか何千圓とかあるといつてゐますが、僕もいくら落ぶれても、金持ちは少し迷惑ですね。」
「いくら落ぶれてもは一寸をかしいですが、貴方の金持嫌ひはよく判つてゐます。やうやくこれまで落ちぶれたんだから、といふ方が當るんぢやないですか。」
「ですが、ずうつと前に話があつてから、どこにも行かないで待つてゐるといはれると、心を打たれますよ。」
「なかなかの貞女ですね。」
「俺の所へくるのなら心中の覺悟で來なければね。俺といふ身體がいつ亡びるか判らないし、その女(ひと)にしてからが、いつ病氣が出るか知れたものではないですよ。ハヽヽ。」
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)213p~より>
この中に伏線があると思っているんだ。もちろんこの「三木」とは森荘已池のことであり、ちなみに昭和26年の同改訂版では「森」になっている。
鈴木 あれっ、これとほぼ同じことを森自身が「昭和六年七月七日の日記」でも述べているが、こっちの方がわかりやすいな。
吉田 僕もそう思う。とはいえどちらも、あの昭和3年6月の伊豆大島行から約3年を経て再び持ち上がった賢治とちゑの結婚について、賢治自身の口から森が聞いたということを証言しているということになる。そして、先ほどの「ある伏線」とは再び起こったこの結婚問題のことなんだ
荒木 でもさ、森の「昭和六年七月七日の日記」における露に関する記述はほとんど虚構だということがほぼ明らかになったベ。これだってどこまで事実を語っているのか危ういもんだ。
吉田 確かにその危惧はあるけど、森はとりわけ親交の深かった賢治の詩友というだけでなく、直木賞を貰っているだけの実力があったのにもかかわらず、賢治のために自分を犠牲にしたとも言える程の人物だ。しかもその森が、「その日の日記を書きうつそう」と前置きした後で述べているのがいま引用した部分だから、この場合は…
荒木 そっか。しかも森一人りのみならず佐藤隆房も同じようなことを書き残しているのならば、吉田の言うとおりこの場合に限っては少なくともそこに虚構はないと思うことにしよう。ここに述べられていることは賢治にとってはどちらかというと不利なことだから、なおさらにな。
吉田 さて一方、長編詩「三原三部」からは賢治がちゑに好意を抱いていたことは窺えるし、賢治が伊豆大島行を終えて帰花して後に藤原嘉藤治を前にして、
 あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな。
<『新女苑』八月号 実業之日本社 昭和16・8>
と述懐していたということだから、賢治自身はちゑとならば結婚してもいいと前々から思っていたことは十分にあり得る。
荒木 この賢治と森とのやりとりからは、賢治はちゑとの結婚についてはまんざらでもなさそうだしな。でもさ、賢治って「独身主義者」じゃなかったのか?
吉田 そこなんだよ荒木、「独身主義」のみならず、昭和6年当時の賢治はかつての賢治ではなくなっていたということが同書で引き続いて綴られていて、僕もそれを初めて読んだ時は驚天動地だった。ちなみにそれは次のように、
 どんぶりもきれいに食べてしまうと、カバンから二、三円((ママ))の本を出す。和とぢの本だ。
「あなたは清濁あわせのむ人だからお目にかけましよう。」
 と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だつた。春信に似て居るけれど、春信ではないと思う――というと、目が高いとほめられた。
 …(筆者略)…そして次のようにいつた。
「ハバロツク・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちつとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になって、伏字にしなければならなくなりますね」
 こんな風にいつてから、またつづけた。
「禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです。」
 自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻轉ではない。天と地がひつくりかえると同じことぢやないか。
「何か大きないいことがあるという。((ママ))功利的な考へからやつたのですが、まるつきりムダでした。」
 そういってから、しばらくして又いつた。
「昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといつたそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな僞善に過ぎませんよ。」
 私はそのはげしい言い方に呆れる。
「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしようね。」
と私は答えた。
「いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう。
<『宮沢賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)107p~より>
と述べられているんだ。
荒木 じゃじゃじゃ、こりゃたまげだな。
鈴木 でも実は一番驚いていたのは賢治自身だったかもしれない。というのは、この後で賢治は森に対して、
 石川善助が何か雜誌のようなものを出すというので、童話を註文してよこし、それに送つたそうである。その三四冊の春本や商賣のこと、この性の話などをさして、
「私も随分かわつたでしょう、変節したでしよう――。」
という。
<『宮沢賢治と三人の女性』109pより>
と話したということだから。
吉田 なお、「春本」についてはこの時のみならず、この後の昭和6年9月の上京時にも携えて行っていて、菊池武雄にはそれをプレゼントしている。
荒木 そうだったんだ、その当時の賢治は。まあ…まさしく《創られた賢治から愛すべき賢治に》ということだとすれば歓迎すべきことなのかもしれんけどな。
鈴木 それにしてもな、「功利的な考へからやつたのですが」はな…確かに賢治は様変わりしてしまった。
吉田 僕とすれば、「何とそういう打算的な考え方でそれまでやっていたというのか!」ということでがっくりだった。まあでもそれが賢治の生き方なのだから、僕がとやかく言える筋合いのものではないけど。
◇ちゑ自身はどう思っていたか
荒木 ところでちゑの方は一体どう思ってたんだべ。
鈴木 それは、ちゑが森に宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の次のような一節からほぼ窺える。
 皆樣が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られますあの御方に、御逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の爲に、私如き卑しい者の関りが必要で御座居ませうか。あなた樣のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆樣の陰にかくれて靜かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓ひ申し上げた事(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。
<『宮澤賢治と三人の女性』157pより>
 つまり、ちゑは賢治と「約丸一日大島の兄の家で御一緒」してみて、賢治とは結婚できないとちゑ自身が「あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた」とはっきり言い切っている。また、わざわざ「(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)」と書き添えて、家族も反対しているのだと駄目押しさえしている。
吉田 さらに、ちゑと賢治を結びつけようとする原稿や記事について、
 今後一切書かぬと指切りして下さいませ。早速六巻の私に関する記事、拔いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。…(筆者略)…
 さあこれから御一緒に原稿をとりに参りませう。口ではやはり申し上げ切れないと思ひ、書いて参りました。どうぞ惡からずお許し下さいませ。取り急ぎかしこ。
<『宮澤賢治と三人の女性』158pより>
とちゑは森に懇願している。余程結びつけられることが嫌だったんだろう。「六巻」ということだから、十字屋書店版『宮澤賢治全集第六巻』からは関連する原稿を抜いて欲しい、さあ一緒に取りに行きましょうとまで言ってちゑは森に迫っていたのだから。
鈴木 そうそうそうなんだよ。そして実際には、その記事は『宮澤賢治全集 別巻』の「解説」に、
   書簡の反古に就て
 …あとの方の同文らしい三通の反古は、伊豆大島に療養中の著者の友人に宛てたもので、この友人は兄妹で大島に住んでをりました。…(筆者略)…友人の妹である女性は、著者の方から結婚してもよいと考へたこともあつた女性であります。それは遂に果たされなかつたのですが、この著者の結婚に對する考へについては、事が重大でありますし、――この短文でよく書きつくせるところではありませんから後日に譲ります。ただその一人の女性が伊豆の大島に住んでゐたことと、著者が力作「三原三部」を残し、
  ……南の海の
    南の海の
    はげしい熱氣とけむりのなかから
    ひらかぬままにさえざえ芳り
    ついにひらかず水にこぼれる
    巨きな花の蕾がある……(第二巻二五八頁)
といふ六行の斷片が、深くこれに對する答へを暗示してゐると私は見ます。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店)所収「附録」72pより>
というふうに実際には載せられてしまったと判断できる。
吉田 一方で、ちゑは森がそれを為さないであろうと見通したためだろうか、再度森に同年2月17日付の手紙を出して、
 ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)164pより>
とさえも言っていたのにだ。
荒木 じぇじぇじぇ、そこまでちゑは言ってたのか…完全なる拒絶だな。余っ程結びつけて欲しくなかったんだべ。
吉田 そう、賢治と結びつけられることをちゑきっぱりと断っていたのさ。
荒木 しかもちゑの懇願は結局無視された、というわけか。可哀想に。
鈴木 ちゑは当時の言葉で言えば「翔んでる女性」の一人であったとも仄聞している。そして一方の賢治は、その頃は定職も持たない当時の言葉で言えば「高等遊民」だった。
吉田 しかも、ちゑが森に宛てた手紙の中で
 たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて、花巻にお訪ね申し上げたとは申せ…
<『宮澤賢治と三人の女性』162pより>
とちゑはしたためていることから、この見合いはちゑが年老いた母に義理立てしてしぶしぶ受けたそれであることがわかる。ちゑはもともとこの見合いには乗り気でなかったのだ。
荒木 それゆえにちゑは拒絶したのかもしれんし、昭和3年6月に賢治を見送った後のちゑが、賢治に対してどう思っていたかは既に明らか。にもかかわらず森はそれを無理矢理結びつけようとしたということか。
鈴木 さっき吉田も指摘したように、賢治と一緒になることはないと「一人ひそかにお誓い申し上げた」ということをちゑは先の書簡に書き記しているわけだが、このことをズバリ裏付ける『私ヘ××コ詩人とお見合いしたのよ((註十三))』とちゑ自身が知り合いに対して漏らしていたということを、私は二人の人から違うルートで聞いている(そのうちの一人は佐藤紅歌の血縁者で平成26年1月3日に、もう一人は関東の宮澤賢治研究家である(ただしその時期はそれ以前なのだがそれが何時だったかは失念))。
 同一内容の発言を複数の人が私に教えてくれたのだから、このちゑの発言は一部の関係者の間では案外知られていることでもあろう。また私自身も、「(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)」を裏付ける証言をちゑの関係者から直接聞いてもいる(平成25年12月11日聞き取り)。
 しかも、賢治と無理矢理結びつけることは止めて欲しいと必死になってちゑが懇願しているのはこの時の森宛書簡のみならず、先に引用した10月29日付藤原嘉藤治宛書簡((註十二))でもちゑは同様なことを次のように、
 又、御願ひで御座います この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうにいんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎり お果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄をお訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
と認めている。
吉田 ちなみに、ちゑが言うところのその「御本の後に御附けになりました年表」というものを探してみると、ほら、『同六巻』所収の附録「宮澤賢治年譜」の15頁に、
昭和三年 三十三歳(二五八八)
六月十三日、伊豆大島へ旅行、兄七雄氏の病を療養看護中の伊藤チヱ子氏を訪れ、見舞旁々、庭園設計を指導し、詩「三原三部」を草稿す。
<『宮澤賢治全集 別巻』附録15pより>
となっていて、ちゑの言うとおりの内容になっている。だから、ちゑの願いは結局聞き入れられなかったということがわかる。これはおそらく、戦中の出版だから著者はこう書きたかったのだろうけど。
鈴木 あっそうか。労農党の大物活動家である七雄の所へ、しかも岩手県下に凄まじい「アカ狩り」が行われていた頃の昭和3年6月に賢治が訪れていたということになれば、当時「戦意高揚のために利用され出していた賢治」にとって好ましいことではないと考えた人もいただろうからな。そこで、「伊豆大島行」は七雄と会うためではなくてちゑを訪れるためであったとしたかった、というわけか。
荒木 一方、ちゑは森に対してのみならず、嘉藤治に対しても同様のお願いをしているわけだからちゑの本心は明らか。それも、俺からみればこの十字屋版の「賢治年譜」であればさほど問題のある内容とも思えないのだが、このような内容でさえも「今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄をお訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます」と哀願しているわけだから、ちゑが賢治と結びつけられることをどれ程嫌がっていたかはこれで決まりだべ。
吉田 そして実際伊豆大島を訪ねた賢治なわけだが、ちゑはその時の賢治の素振りを見て、例の「見合い」はちゑにとっては母に義理立てしてしぶしぶ受けたそれであったから自分のその判断が軽率だったことに気付き、そのことを悔いて賢治をまともに見ることができなかったということを森に素直に打ち明けていると解釈できる。したがって、もはや「伊豆大島行」は、少なくともちゑにとっては花巻での「見合い」をさらに進展させるためのものではなかった。それは、ちゑが森に対して、
――あの人の白い足ばかりみていて、あと何もお話しませんでした。――
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)145pより>
と述懐していたことからも裏付けられる。
荒木 そっか、花巻を訪ねての「見合い」がちゑにとっては「盗み見」が如き行為だったことを悟り、良心の呵責に苛まれてもはや目をふせているしかなかったということか。
鈴木 またそれは、この「伊豆大島行」に関して時得孝良氏は学生時代、ちゑを訪ねて本人から次のような聞書きを得ていることからも窺える。具体的にはそのことを萩原昌好氏が『宮沢賢治「修羅」への旅』の中で、
 賢治に関する研究書や評論に、ちゑさんと賢治の関係(見合いとか結婚の対象とか)をさまざまに書いているが、昭和三年六月に大島で会った時も「おはようございます」「さようなら」と言った程度の挨拶をかわしただけで、それ以上のものではなかった。
<『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)323p~より>
と記している。このような挨拶程度の対応しかしなかったということは、ちゑはもはや賢治とは結婚しないというと決意の現れだったのだろう。

 ちゑ『二葉保育園』勤務の意味
 ふと思った、そもそも当時ちゑが勤めていたという保育園とは『二葉保育園』なのだろうかそれとも『双葉保育園』なのだろうかと。
◇ちゑ『二葉保育園』に奉職
 そういえば、ちゑが勤めていた保育園に関して私は何もわかっていなかったなと反省しつつも、為す術もなくそれを確定できずにいた。そんな矢先、荻原昌好氏が次のようなことを述べていることをたまたま知った。
 チヱは、地元で育った後、大正一三年から同一五年まで二葉保育園(もと二葉幼稚園)に保母として勤務していた。これは、『光りほのかなれども――二葉保育園と徳永恕(ゆき)』(上笙一郞・山崎朋子著・朝日新聞社)によれば「セツルメント」の祖と言って良いもので貧民街の保育・教育が目的の園であった。但し『二葉保育園八十五年史』(昭60・1)によると、政府の援助金、や宮内庁からの御下賜金などもあって、所謂一般的なセツルメントとは言えない。そこに大正一五年まで勤めていたとあるのは、兄七雄の看病の為、休職したのである。というのは同『八十年史』には昭和三年~四年の在職期間が記されており、七雄氏の御子息の記憶によると、昭和一一年以後も勤めていたという。…(筆者略)…つまり、二葉保育園に七雄氏の死後再び戻っていたようである。
<『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)314p~より>
 そこで、この保育園と思われる『二葉保育園』をインターネットで探して電話をしてみた。そして、『貴園は『八十年史』をご出版なさっておられるということですがお譲り願えないでしょうか』とお願いした。ちゑがそこに確かに勤務していたということを確認したかったからだ。すると、それはございませんが『八十五年史』ならばございますということだったので、それをお譲りいただいた。
 その『二葉保育園八十五年史』(社会福祉法人 二葉保育園、昭和60年)を見てみると、同書所収の「同労者職員名簿」の8頁には
   同労者職員名簿
*二葉への参加年月及び退職年月は一部資料不足で間違いもあると思われますがご了承下さい。
    氏  名  在職期間
    伊藤ちゑ 〃13・9~15
          昭和3~4
とあった。つまり、ちゑはこの保育園に大正13年9月~大正15年及び昭和3年~4年の間勤めたいたことが判る(この在職期間の空白は、兄七雄の看病の為に伊豆大島に行っていた期間と捉えればなおさらこのちゑは水沢出身のあのちゑであることが納得ができる)。なお、ちゑはこの期間の他にも同園に勤務していたらしいが、ちゑは他ならぬこの保育園に勤めていたことだけはとりあえずこれではっきりした。いままでは、ちゑの勤めていた保育園の名前が『二葉』なのか『双葉』なのかさえもわからずにいたが、これでその保育園は『二葉保育園』であることも確定できた。
 そしてついこれまでは、ちゑは保育園の保母をしていた程度にしか認識していなかった私であったが、この『二葉保育園』はものすごい保育園であるということを、『光りほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)によっても知ることもできた。
 そこで、同書を元にして同園のことを少し概観してみたい。
『二葉幼稚園』は、明治33年(1900年)に野口幽香と森島美根によって麹町区下六番町(現千代田区六番町)に家を借りて16名の園児を受け入れて創設されたという。そして明治39年には四谷鮫河橋(東京三大貧民窟の随一)に移転し、スラム街の子女の慈善保育活動に取り組んだ。(38p,121p等より)
 その創設者の一人野口がその頃の心境を
 森島さんと私は、麹町の近くに住んで、いつも二人で永田町にあった華族女学校の幼稚園に通ってをりました。その途中、麹町六丁目のところを通りますと、往来で子供が地面に字を書いたり、駄菓子を食べたりして遊んでいる姿を、よく見ました。幼稚園の帰りに、夕方そこを通っても、やはり、往来で遊んでゐます。一方では、蝶よ花よと大切に育てられてゐる貴族の子弟があるのに、一方では、かうして道端に棄てられてゐる子供があるかと思ふと、そのまま見過ごせないやうな気がしてきました。(38pより)
と述懐しているということだから、その創設理由がこのことからほぼ窺えるだろう。
 そして、創設者野口と森島の後継者となったのが、後に野口が「二葉を担ふ大黒柱」と呼ぶに至った徳永恕(ゆき)であったという。この徳永について、同書の著者は、
 世の常識が女性の幸福と見なしている結婚もせず、生活的な安楽も追わず、加えて栄誉にも恬淡として八十年人生を社会に捧げ尽くし、しかも『聖書』が「マタイ伝」第五章((ママ))において教えるとおり「右の手のしたることを左の手に知らせなかった」彼女を、心底より立派な女性であったと思う。(34pより)
と評している。またその後、同園には母子寮も併設され、
 恕のつくったこの二葉保育園の母の家は、近代日本における〈母子寮〉という社会福祉施設の嚆矢であった!(239pより)
ということでもある。
 ところが大正12年、あの関東大震災で同園の新宿旭町分園は焼失、鮫河橋の本園は倒壊と火災をまぬがれたものの大破損したというのにもかかわらず、
 二葉保育園は、その大破損の本園に「罹災者の収容約百名、一方谷町青年会を輔けて配給所の任に当た」り、「東京聯合婦人会の救援活動に加はり、調査、慰安、配給の事に当」り、「千駄ヶ谷東京府罹災者収容所附設託児所、新宿御苑バラック附設託児所、王子古河家臨時託児所の三カ所に保姆派遣」をしたほか、「十二年十一月、府より六十坪のバラックをうけ罹災者中の母の家と」したという。
 自分の保育園が壊滅状態であるというのに、それよりもなお惨憺たる有様の人たちの救護に全力を挙げるところがいかにも恕らしいのだが、こうしたことは決してこの折ばかりではなかった。(245p~より)
とのことである。徳永恕の面目躍如である。
 そしてこのような大変な状況下にあった『二葉保育園』に、大正13年9月から伊藤ちゑも勤め始めたということになる。ちなみに、ちゑは明治38年3月15日生まれだということだから、このとき19歳、盛岡高等女学校卒業(大正10年)から3年後の同園への就職となろう。
 さて、ではなぜちゑは関東大震災一年後の、しかも同園は同震災で罹災してしまったので園舎再建未だしだったのにもかかわらず敢えてそこに奉職したのだろうか。
 その時に思い出されるのが、ちゑの兄七雄の勇気ある次のような行動である。関東大震災後直後といえば、大杉栄を始めとする無政府主義者・社会主義者や罪もない朝鮮人への凄まじい虐殺や弾圧がなされたということだが、そのような最中、
 関東大震災のとき朝鮮人騒動のデマが飛び、朝鮮人が民衆や官憲テロの対象になったことがある。このとき七雄は、自分が経営する長白寮に居住する朝鮮人二十数名を守り抜いたといわれる。
のだそうだ。そして続けて澤村氏は、兄七雄について、
 社会主義者の面目躍如である。正義感がつよく、度胸も知恵もある好漢であった。
<『宮澤賢治と幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)167p~より>
と述べている。どうやら、伊藤七雄・ちゑ兄妹は互いに影響を及ぼし合いながら同じような考え方を持つようになっていて、共に、今現在困っている人たちのために己のことを顧みず手を差し伸べるという姿勢の持ち主であったようだ。
 これもまた『光りほのかなれど』によるのだが、同園の仕事はいわば<セツルメントハウス>のようなものであったということだし、野口も森島も敬虔なクリスチャンであり、一方の徳永はクリスチャンらしくないクリスチャンだったということだから、おそらく同園はキリスト教の精神に基づいて運営されていたであろう。ちなみに現在でも同園は
 キリストの愛の精神に基づいて、健康な心とからだ、そしてゆたかな人間性を培って、一人ひとりがしっかりとした社会に自立していけることを目標としています。
<『社会福祉法人 二葉保育園 リーフレット』より>
とその理念を掲げているので、先の私の見方はそれ程間違ってもいなかろう。
 一方、萩原昌好氏によれば、『島之新聞』(昭和5年9月26日付)の記事の中に、
あはれな老人へ
毎月五円づつ恵む
若き女性――伊藤千枝子
とあって、島の老女に同情を寄せたチヱさん(当時二三歳)が、
(前略)大正十五年夏転地療養中の現在北の山在住の伊藤七雄氏の看病に来島した同氏の妹本所幼稚園保(ほ)母伊藤千枝子(本年二十三才)は隣のあばら家より毎夜開かるゝ藁打ちの音にいたく心を引かれ訪ねたところ誠に哀れな老婆なるを知り、測隠( (ママ))の心頻りにして滞在中実の母に対するが如く何彼と世話し、七雄氏全快とともに帰京し以後今日まで五六年の間忘るゝことなく毎月必ず五円の小為替を郵送して此の哀れな老婆に盡してゐるが誠に心持よい話である。
という記事が見える。
<『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)317p~より>
というのである。
 つまり、大正15年の夏、伊豆大島で療養中の兄七雄の看病のためにやって来たちゑは、同島に滞在していた間は隣の気の毒な老婆に何くれと世話を焼き、後に東京に戻って『二葉保育園』に復職していた期間もその老婆に毎月5円もの仕送りをし続けていたことがこれで判る。当時の『二葉保育園』の給与は薄給(推測だが、おそらく20円前後か?)であったことは間違いないようだから、自分の身を削ってまでして特別繋がりがあったわけでもない老婆に援助をし続けるちゑの献身振りは見事であると言えよう。ここにも、ちゑのセツルメント精神が見出せる。まさに、この老婆に対するちゑの姿勢は、「右の手のしたることを左の手に知らせるな」と言えよう。
 したがってこのことと、当時スラム街の保育にひたむきに取り組んでいた『二葉保育園』へ、しかも再建未だしの同園へちゑが自ら身を投じていったのであろうことに鑑みれば、当時の実質的な同園の園長であった徳永恕の徹底振りには及ばなかったかもしれないが、ちゑは社会の底辺に置かれた子どもたちに手を差し伸べてやって彼らの力になりたいと願いながら、セツルメント活動に勤しんでいたことはもはや疑いようがない。
 仄聞するところによると、ちゑは「翔んでる女」であったとも言われているようだが、それは所謂「モダン・ガール」というような意味でのそれではなくて、それまでの一般的な女性とは違って積極的に社会に貢献していこうとする女性だったという意味でのそれだったのではなかろうか。どうやら、ちゑは社会的な意識が高い人だったろうと今までも私は推測していたが、それだけではなくて、貧しくて恵まれない子供たちのために献身的に実践活動をしていたという、ストイックで崇高な女性であったということに気付かされる。
 そこで過日(平成26年9月25日)、ちゑの実家の現当主にお伺いしたところ、ちゑはクリスチャンではなかったようですということだったから、ちゑの場合には
     クリスチャンの女性=聖女
という図式は成り立たないが、まさにちゑは「聖女の如き人」だったと言えよう。
 なお私の管見ゆえだろうか、今までの宮澤賢治研究家はちゑが保育園に勤めていたことがあったということまでは言及していても、この『二葉保育園』がどのような保育園であったのかということについて、あるいは、同園の実践が如何に素晴らしいものであったのかということについて具体的に言及していた人は一人もいなかったのではなかろうか。しかしこうして同園のことを少し知っただけでも、ちゑ自身のこと、そしてちゑと賢治との間のことが、今までとは全く違った光景に見えてきて、私とすればその真相にまた一歩近づけたような気がする。
◇ちゑの結婚拒否の真の理由
 さてそこで改めて振り返ってみると、ちゑの結婚拒否の真の理由が垣間見えてくる。
 先に引用したように、ちゑからの森宛書簡には、
 この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あのお方のお帰りになる後ろ姿に向かつて、一人ひそかにお誓ひ申し上げた事(あの頃私の家であの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家でご一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯の御相手をするにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらっしゃいました。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)157pより>
と認められているから、ちゑは慇懃にではあるが、賢治との結婚は拒絶したと森に伝えていたことが容易に導かれる。それは、括弧書きの「(あの頃私の家であの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)」が如実に語っている。なお以前にも述べたことだが、伊藤家側では賢治との結婚に反対だったということは、私自身も直接その一人から教わっている。
 これに関しては以前の私ならば、昭和3年6月の「伊豆大島行」の際に賢治の素振りを見たちゑは、花巻を訪ねての「見合い」は「盗み見」が如き行為だったことに気付いて恥じ、良心の呵責に苛まれて賢治とは結婚をすべきではないとちゑは自分に誓ったという見方をしていて、例えば、
――あの人の白い足ばかりみていて、あと何もお話しませんでした。――
と森に伝えた一言は、まさにそのちゑのいじらしさの現れだと思っていたのだが、どうもそうとばかりも言えなさそうだ。
 なぜならば、一方は、「盗み見」がごとき行為をしたことに対する良心の呵責がちゑに芽生えて自分は賢治にふさわしくないという論理だったはずだが、こちらの書簡の場合には賢治と結婚しないことの理由は賢治の側にあるという本音の論理を垣間見せているからである。そして、当時セツルメント活動に献身していたちゑの生き方を知ってしまった私からすればこの「本音」は至極当然であったと私には思える。
 それは当時の賢治のことを思い起こせばもっと見えてくる。昭和3年6月頃の賢治といえば、佐藤竜一氏も「逃避行」と見ているように、何もかもが上手くゆかなくなってしまって羅須地人協会から逃避するのための上京であったと見ることができるから、自ずからその頃の賢治からは輝きが失せていたであろう。一方のちゑといえば、このような『二葉保育園』に勤めてスラム保育に我が身を擲っていたが、兄七雄の看病のために一時休職、しかし兄は一時回復したので、また復職して貧しい人たちのためにセツルメント活動を実践していた時である。あるいはまた、あの老婆に毎月「五円」を送金し続けていた時でもある。
 一方は当時己を見失っていた「高等遊民」の賢治、もう一方は聖女の如く『二葉保育園』でスラム保育に献身していたちゑ。そこにはあまりにも落差がありすぎた。切っ掛けはともあれ、一度は「見合い」をした相手の正体がほぼ見えてしまったちゑからすれば、賢治は自分の価値観とは正反対の人間であると見切ってしまったのはやむを得なかろう。
 だからこそちゑは賢治との見合いについて、「私ヘ××コ詩人とお見合いしたのよ((註十三))」と冷たく突き放した言葉を深沢紅子に漏らしたと解釈できる。社会的な意識の高かったであろうちゑからすれば、その頃はもぬけの殻に近かった賢治が魅力的に見えるはずもなかった(逆に、賢治からすればそのような献身的な生き方をしているちゑが素晴らしく見えたということは考えられるが)のも当然であろう。
 おそらく、ちゑが賢治との結婚を拒絶した真の理由は、スラム街の子女のための保育にひたむきに取り組み、恵まれない人々のために献身する生き方にちゑは価値を見出していたし、それを続けたかったからだ。私はそう理解できたし、納得もできた。それはちょうど、同じような想いで徳永恕が岩手県出身の及川鼎平との離婚を決めたのと同じように。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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