みちのくの山野草

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3829 賢治の認識していた「羅須地人協会」

2014-04-07 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
「現通説」とのずれ
 さて、梅野健造の証言に基づけば
 昭和3年2月頃、賢治は思想上の問題があると見られて警察から「誤解のため取調」を受け、それがもとで羅須地人協会を解散した。………◎
という可能性が大となってしまった。しかし、一般には羅須地人協会は前年の昭和2年3月をもって協会としての活動を休止したというのが「現通説」のようだし、私としても以前“昭和2年2月1日後の賢治(前編)”および“同(後編)”で私見を述べたように、大体昭和2年4月まではそれまでのような羅須地人協会の活動が続けられていたと判断していたが、まさかそれが翌年の昭和3年の2月頃までも続いていたとは思ってもいなかった。なぜならば、この梅野のような証言も資料もともにないはずだと思っていたからである。
 さてではこうなると、「現通説」と“◎”との間に生じてしまう約1年の時間的なずれはどう解釈すればいいのだろうか。あれこれ思いあぐねた末、私が辿り着いた解釈の仕方は次のようなものだ。
 「現通説」の“羅須地人協会の活動”と当時の賢治が認識していたそれとでは意味が違う。
という解釈である。もう少し具体的に言うと、
 昭和3年2月頃に「誤解のため取調」を受けたことがもとで解散してしまったと賢治が語ったところの“羅須地人協会の活動”と、現在「通説」となっている“羅須地人協会の活動”とは違うものである。
のという解釈である。

賢治の認識していた「羅須地人協会」とは
 そこで同時に私が思い出していたのが青江舜二郎の見方である。実は、『宮澤賢治 修羅を生きる』の中の「社会運動としての羅須地人協会」で、青江は賢治の教え子たちから聞き取ったことを基にして、
 賢治はそれを社会運動の代わりとしてではなく、「社会運動として」、すなわち労農運動の一つとして羅須地人協会を設立したのであった。………①
                   <『宮澤賢治 修羅を生きる』(青江瞬二郎著、講談社現代新書)154p~より>
という見方を紹介しているが、その見方を、である。これは私流に言い換えれば、
 昭和3年2月頃に賢治が認識していた“羅須地人協会の活動”= 労農運動に関わって行う賢治の活動………②
という見方ともなる。そして、このような活動をする「羅須地人協会」こそが昭和3年2月頃の賢治が認識していた「羅須地人協会」である、ということである。
 もちろん、この“②”のような見方は「現通説」とは全く異なっているが、このような見方をすれば、さきほど問題となった時間的なずれは当然あってしかるべきだし、そこに生じていた矛盾も解消することになる。しかも、青江が教え子から聞き取った内容“①”も生かせることになる。
 もう少し詳しく言い換えれば、
 昭和2年の始め頃の“羅須地人協会の活動”については、私たちが現在「通説」と思っているそれと当時の賢治の認識とは一致していた。そして、昭和2年の3月頃をもって協会としての活動を休止したというのが私たちの認識、すなわち「現通説」である。ところが賢治自身はそうは認識しておらず、その後も“羅須地人協会の活動”は相変わらず続けていたという認識を持っていた。もちろんその後の活動内容は以前のそれとは変容してしまって、その主な活動は労農運動に関わって行う活動へと変容していったが、それも“羅須地人協会の活動”であると賢治は認識していた。
とこう考えれば、もはや時間的なずれは何ら不思議でなくなるし、矛盾も生じなくなる。
 つまり、
 梅野健造の証言に従えば、昭和3年2月頃の賢治は、労農運動に関わって行う活動が“羅須地人協会の活動”であると認識していた。
ということになりそうで、当初、梅野健造の証言から導かれる“◎”に対して私は「疑問符」を付けていたのだが、青江が聞き取った証言はこれを裏付けているとも取れるので、これを一概に切り捨てるわけにもいかなくなった。

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