みちのくの山野草

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搗粉の宣伝・販売

2014-07-06 09:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
搗粉の宣伝
 さて、前回最後に引用したように、伊藤良治氏は
    五月下旬には、もう需要期は終わりをつげる注文激減現象の到来となる。
と述べていたが、このことを受けて同氏は前掲書において「六 搗粉製造販売に力点を移す」という項を立てて、次のように論考している。
 さて五月半ばまでの農繁期が過ぎてパッタリ受注が途切れてしまう。どうしても次のステップを切り拓いていかなければならない。
 ・「六月以降の注文を得る様捲土重来いたすべく……いづれ陰陽は交代し晴雨は循環致すべく次便を御待ち奉願候」(五月一九日)
 ・「栗原の注文未だに着せずしきりに心配致し候」(五月二五日)
 前述のように、岩手県内各地のセールスに引き続き、宮城県内での猛烈な活動を展開した賢治が、疲労の極みに達し十日ほど床に伏していたその頃である。賢治が倒れるのと受注が途絶えるのが重なってしまったため、病の床にありながらも工場のことを案じ、何とかして経営をつないでいこうとしている。
   …(略)…
 搗粉とは、精米・精麦を容易にするために混ぜる粉を言うのだが、当時何も混ぜないで搗く方法(無砂搗)と、珪砂や石灰石粉を混ぜて搗く方法があった。ところが搗粉(砂や石灰石分)を混ぜて搗いた米は胃癌の有力な原因になるので、搗粉使用を禁止する法律をつくれとさえ言われていた時期だった。…(略:投稿者)…石灰石分で搗粉を製造してその販売で閑散期をしのごうとしていた。
              <『宮澤賢治 東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)160p~より>
今まで私は「搗粉」なるものが如何なるものかわからなかったがこれで少しわかった。
 そこで賢治は、この宣伝のための広告「精白に搗粉を用ふることの可否に就いて」もつくっている。伊藤氏によれば
 「孔雀印手帳」に賢治は、六月と七月を搗粉販売の月としている。そのため東蔵と一緒に搗粉製造器更新のために金策に努めたり、搗粉広告の作成に工夫をこらしたり、肥料用炭酸石灰の需要期が過ぎた六月、七月の工場経営の主力にこの搗粉販売を据えていた。
              <『宮澤賢治 東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)163pより>
ということである。そこで実際にその広告内容(『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)239p~より)を見てみると、それはかなりの長文なのでポイントも絞りきれなく、かつ専門的であるから、この広告文をちょっと見たぐらいでは搗粉の良さはわからないと私は感じた。せいぜいこの広告で私が目を引いたのは最後の
   石灰搗きの米が胃癌の原因ならば、豆腐も胃癌の原因でせう。
   石灰搗きの米糠が馬に有害ならば、それは骨なし馬でせう。

という、唯一のユーモア部分だけだった。
 次に、「六月と七月を搗粉販売の月」ということだから実際に6月の書簡を見てみると、
    357 六月四日 鈴木東蔵あて 葉書
今朝山口活版所に参り搗粉広告印刷掛合候処前回の半分の大さとし青インク刷銅版は前回の砕石場を入れ五千枚金十五円とのこと如何に候や。若し銅版別のものをお入れならば至急同所宛御申置願上候。次に当駅下車只今種蓄場へ行き参り候。本年は予算全くなくして何とも遺憾の由 之より種馬所と育成所へ参るべく候。
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)350pより>

    358 六月四日 鈴木東蔵あて 葉書
十二時十五分当駅に下車して種馬所と育成所とを訪ひ申候処両処共矢張本年は予算なくして録に肥料も買はざりし由但し育成所の方は少量八戸より買ひしとて見本を示され種馬所の方は消石灰を用ひたりと申し候。尚両方共に貴下の御来場ありし由を申し居候。八戸の見本敢迄色は黝くなるほど之にては搗粉は出来まじくと思はれ候。種馬所の方今年中尚脉あるらしく今夏末までに紹介を得て今一度参るべく候。
扨明日よりは搗粉の封筒書きを致すく先づ私にて岩手県内を書き始め申すべく右御諒承を願ひ上候
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)350p~より>
というように、搗粉広告の工夫や搗粉のダイレクトメールに関しての言及をしていることが確認できる。

搗粉の販売営業結果
 そして7月に入ると、今度は賢治は直接セールスに出かけている。伊藤良治氏によれば、
 そして賢治は搗粉を引き受けてくれそうな盛岡市内の肥料商二二軒を、刷り上がったこの広告を片手にセールスに歩き回る。七月三日の東蔵宛書簡には、彼の回った一軒一軒の反応報告が記されているが、何とも哀れをもよおすみじめな結末が伝わってくる。
              <『宮澤賢治 東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)163pより>
というように、その結果は思わしくなかったようだ。
 そこで実際にその書簡を見てみよう。
    365 七月三日 鈴木東蔵あて 封書〔封筒ナシ〕
拝啓 昨日及一昨日盛岡市内に於る各店搗粉需要状態調査の成績左の如くに御座候
町名   店名   月使用量 仕入先   適要
油 町 丸善商店 三十貫  三ッ家小原 ・次回仕入レノ際当工場ノモノヲ注文
 〃  小林商店 四十五貫  〃    店主不在、取次ノ約、
 〃  川越千次郎 不詳  不詳    商勢甚不振
大工町 小原精米場 二百貫 三ッ家小原 丸久氏二土沢ヘノ米代数百円貸シアリ
   …(略:投稿者)…
大沢河原 村八米穀店 年数車、 助川 主人不在、再訪ヲ要ス。
馬 町 関口藤左エ門(浜藤酒造店支配人 小生ノ友人)今秋ノ使用ヲ略々約ス。
太田村産業組合、 秋期ノ石灰岩抹二関シテ宣伝、有望ナリ。
         精白ハスグ隣リノ個人経営ノエ場ニテ行フ。ソノエ場主人不在、組合員二取次ヲ乞フ。
以上の如き次第にて遂に注文としては一車をも得ざりし訳に御座候へ共今后の下地は作りたる積りに有之候。尚右不成績の理由左の如きかと存ぜられ候。
一、只今移出米の時期に非ること。
二、本年は玄米にて移出せらるゝもの多きこと。
三、他地方にて生産過剰の結果必死の売込をなし居ること。
四、盛岡は当工場の運賃による長処を充分発捧し難きこと。
五、化粧粉として使用するもの多く、或は無砂を標ぼうするもの多きこと。
之に対し当工場策戦としては、
一、敢迄成分の点と色白からざるもの揚粉を日立たしめずと主張し、石灰入の米糠を高価ならしむるやう宣伝すること。
二、何等かの工夫にて一車値段にて小売すること。大精米場には更に廉価に供給すること。
三、屈せずして絶えず外交すること。
の外はなきかと存ぜられ候。既に三春産の純白なるもの十五貫盛岡六十銭とすれば当工場右の点にては到底及ばざる訳に有之候。次に三春助川共割合農村及小都市へは未だ入込み居らず候間その方面へ宣伝すること、並びに特に工場に近き地方、一ノ関附近水沢附近乃至宮城県北部に大にカを加ふること必要かと存晋られ候。
今日は当地にて残部の発送、(見本到着候儀)を了へ明日は今一度盛岡及日詰等手を入れて見度と存居候
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)355p~より>
 たしかにそこには、7月1日と2日の二日間にわたって営業に回った22軒についての報告が事細かになされていて、如何に賢治の営業が徹底していたかがわかるとともに、逆にそれが徒労に終わってしまったという空しさがひしひしと伝わってくる。なにしろ、これだけ賢治が頑張ったというのに一件の注文さえも取ることができなかったからである。まさしく、伊藤氏が「何とも哀れをもよおすみじめな結末が伝わってくる」と感想を述べているとおりである。
 と同時に私には気がかりなことを思い出してしまった。それはこの書簡の日付の四日後の賢治の、それまでとは180度とも言える程の変わり様についてであるが、それはいずれ後述したい。

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