みちのくの山野草

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光太郎の山口での独居自炊(訪問者)

2024-01-17 14:00:00 | 独居自炊の光太郎
〈「雪白く積めり」の詩碑》(平成22年7月29日撮影)

 山口での独居自炊時代の光太郎の日記を見ているとすぐ気付くのが、佐藤勝治が足繁くあの小屋に光太郎を訪れていることだ。そもそも、佐藤勝治の熱心な勧めで光太郎は山口に移り住んだということだし、あの小屋と山口分教場は近くだったから当然といえば当然であったかもしれないが。しかも、佐藤勝治はその分教場の先生であったからなおさらに。
 一方、『賢治・啄木・光太郎』(読売新聞社盛岡支局)の197pによれば、この小屋の訪問者については、「最初の冬はごく近しい者以外、殆ど訪問者はなかった」と述べられていた。そこで、やはりここでの光太郎は「自己流謫」ということで、山奥で一人ひっそり暮らしていたのだと私は決めつけたのだが、光太郎の日記を読み進めていくとそのようなことだけでもなかったようだということに気付き始めた。ちょうど前掲書が「ひっきりなしにだれかれがやってくるようになったのは、年が明け、昭和二十一年の春になってからだ」と述べているようにだ。
 そこで実際に、光太郎の昭和21年の日記を見てみると、佐藤勝治以外の主な訪問者等については以下のようなことなどが述べられていた。

3月21日
 午后水原宏氏来訪せらる。
3月22日
 ひる近く真壁仁氏、今泉篤男氏、村の子供に案内せられて来訪。
 つけ焼き磯巻を三人分つくり、ひる食とする。
3月23日
 十時頃真壁、今泉両氏来訪、
3月28日
 戸来恭三さん来る。
3月30日
 午前十一時頃、関登久也氏の令息と、岩田豊蔵氏の令弟と二人来訪。
4月5日
 午后勝治さん、わたるさん、それに友人ののぼるさんといふ人来訪。 
4月6日
 勝治さんと他に一人来訪、村長さんにて昌‘歓寺の住職神 武男氏という人なり。
        〈『高村光太郎全集〈第20巻〉 補遺(2)』(高村光太郎著、筑摩書房)52p~〉
 というわけで、昭和21年の春頃になると確かに来訪者が増え始めていた。それも、遠くからもだ。ちなみに、高村光太郎に師事した真壁仁が遠く山形からやって来ていたということになる。そういえば、斎藤茂吉も山形だ。そして、茂吉も戦意昂揚に協力的だったから、光太郎の自己流謫を知って真壁は茂吉に対してどう感じたのだろうか気になる<*1>。
 なお、3月30日の日記に「四月二日以降、岩田豊蔵君来訪の由にて純蔵さんに手渡す約束」という記載を見つけて嬉しくなった。私の恩師の「岩田純蔵」のことが記述されていて、この記載の仕方から、岩田純蔵先生は当時既に光太郎に知られていたであろうことが窺えたからだ。

<*1:投稿者註>
 歌人斎藤茂吉はアララギ派の総帥で、高村光太郎に似て戦争賛美・戦意昂揚短歌、言わば戦争強力の歌を詠み、その中には東条英機賛歌などもあり、戦争協力を恥じたり、反省するというようなことは全くありませんでした。<『農への銀河鉄道』(小林節夫著、本の泉社)233p~>
 一方、同じく山形県人の藤沢周平は『ふさとへ廻る六部は』(新潮社)で光太郎と茂吉に関して次のようなことを語っている。
 ともに戦争礼賛の詩や歌を詠んだ2人だが、光太郎は戦争協力した自己点検の詩集『暗愚小伝』を出し「千の非難も素直にきき、極刑とても甘受しよう」というが、一方の茂吉は歌集『白き山』を出し、注意深く読めば低音の懺悔の響きがあるものの、「軍閥ということさえも知らざりしわれを思えば涙しながる」という歌を戦犯をのがれるために詠み、光太郎の自己点検には遠くおよばない。それは2人の戦争協力の認識の有無の違いにあると思われる。<『ふさとへ廻る六部は』(藤沢周平著、新潮社)より>

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 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

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