みちのくの山野草

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賢治を中傷する女の人

2019-02-10 08:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、友藍書房)の表紙》

鈴木 では、いよいよ最後に残った「昭和7年」分についてだ。
 まずは、この『イーハトーヴォ第十號』を見てくれ。その五頁には、高瀬露の短歌、
    ・教へ子ら集ひ歌ひ語らへばこの部屋ぬちにみ師を仰ぎぬ
    ・いく度か首をたれて涙ぐみみ師には告げぬ悲しき心

などの四首が載っている。そしてそこには、
 右は九月一日菊池暁輝氏を迎へての遠野における賢治の集ひの際の感歌です。
            <『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、昭和15年9月)より>
との註釈が添えてある。
荒木 そうか、昭和15年だから賢治が亡くなって7年後に遠野で開かれた「賢治の集ひ」に露は出席していたのか。しかも「教へ子ら」とも詠まれているから、賢治の教え子たちと共に賢治のことを偲びながらこれらの歌を露は詠んだわけだ。しかも「み師」というような尊称を用いてだ。
鈴木 その当時ならそれこそ「教へ子」の澤里武治も遠野にいたのだから、武治もその集いに出ていたのだろうか。
吉田 鈴木、その『第十號』の最後の頁を見てみろ。たしか「何とかニュース」とかいうのがあって、そこに「賢治の集ひ」の参加者についても載っていたはずだ。
鈴木 そうかこの「各地ニュース」のことだな、気付いていなかった。そうだそうだ、
□翌九月一日には午後一時より前記小學校圖書室にて菊池暁輝氏を中心に、同校先生にして賢治生前教をうけた小笠原露先生及び阿部さちえ、加藤將、菊池の諸先生、花卷農學校時代の教へ子遠野靑年學校教師小原武治、靑笹靑年學校教師淺沼政規諸氏等と賢治の集ひが催され、賢治の理念、思ひ出、新しき時代に就いて靜かに語られ、また詩を朗讀し、賢治作品を歌ひ樂しい會合であつた。
             <『イーハトーヴォ第十號』(同)より>
とある。当時武治は遠野で先生をしていたから、この「教へ子遠野靑年學校教師小原武治」の姓「小原」はミスであり澤里武治に間違いなかろう。しかもこの頃は淺沼政規も遠野にいて、この二人の教え子も露と一緒にその集いに出席していたのか。
吉田 それにしても露って立派だよな。あれこれ論われていることを知りながらも、臆することなく「賢治の集ひ」に出席して賢治のことを偲びながら、崇め、讃える歌を詠んでいるわけだから。このことだけからしてみても露の人柄が容易に偲ばれる。
荒木 うん? この当時露は自分が悪し様に言われていることを知っていたのかな。
鈴木 それは、この見開きの右側四頁を見ればある程度、さらに『イーハトーヴォ創刊號』を見ればなおさらに、露がそのことを知っていたと推測できる。
 特に『同創刊號』には、昭和14年10月21日に行われた「盛岡賢治の會」例會における高橋慶吾の談話が、「賢治先生」というタイトルで載っていて、「ライスカレー事件」に関して
 その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで亂調子にオルガンをぶかぶか彈くので先生は益々困つてしまひ…
などと喋ったことが活字になって載っているからな。
 そこでだ、ほら、『同第十號』の四頁のこの「賢治素描(五)」を見てくれ。そこにはどんなことが載っている思う?
荒木 どれどれ…この関登久也の追想「面影」の中の一節、
 …亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
 他人の言に對してその經緯(イキサツ)を語り、了解を得ると云ふ樣な事は曾て賢治氏になかつた事ですから、私は違つた場合を見た樣な感じを受けましたが、それだけ賢治氏が普通人に近く見え何時もより一層の親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたと云ふ私の賢治氏を説明する常套語とは反對の普通のしたしみを多く感じました
             <『イーハトーヴォ第十號』(同)より>
のことだな。あれ? この「賢治氏を中傷的に言ふ云々」と似たエピソードたしか何かで読んだことがあるな。
鈴木 そう、このエピソードは関登久也の他の著書でも紹介されているからそちらを荒木は以前に見たんじゃないのかな。
荒木 そうか、「曾て賢治氏になかつた」ような一大事がその時にあり、この「賢治氏知人の女の人」とは露のことなのか。
吉田 そう一応な。そしてこの『同第十號』の誌面作りは編集者の思惑が見え見えで、当時露の噂は一部関係者には知られていたと聞くから、ほら、見る人から見ればこのように見開き両面
【『イーハトーヴォ第十號』4~5p】

              <『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和15年9月発行)より>
の四頁には「賢治素描(五)」が、五頁には「小笠原露(高瀬露)の短歌」がそれぞれ掲載されていて、左右全体ではゴシップ仕立てとなっており、露は晒し者にされたと言えなくもない。
鈴木 一方、露はこの『同第十號』のみならず『同第四號』にも短歌を寄せているから、まず間違いなく露は機関誌『イーハトーヴォ』の読者であったと判断できる。それゆえ、露はこの慶吾の「賢治先生」等を直接目にしていると言えるだろう。
荒木 つまり、露は「賢治先生」等を読んでいたはずだから、自分が論われていることは十分承知だったというわけだ。
吉田 一方賢治の方だが、「一應の了解を求めに來た」というこの出来事は賢治が亡くなる一年位前のことだというから、「昭和7年9月」前後頃の、当然昭和7年の出来事となるだろう。しかも、あの実直で生真面目だと思われる関登久也がこうまで語っているくらいだから、この訪問の際の賢治はいつもとは全く正反対だったということはほぼ事実と判断しても間違いなさそうだ。
鈴木 しかし、実はこの「賢治氏知人の女の人」の件だが、この『同第十號』を見ても、関登久也の他の著書を見ても「賢治氏知人の女の人」が露であるということは一言も述べていないし、それをずばり示唆する記述もまたない。
荒木 そもそも昭和7年といえば、露はその3月末に遠野に人事異動となり、小笠原牧夫と結婚、上郷小学校の先生をしていたのだから、なにもわざわざ遠野から花巻にやって来て「賢治氏を中傷的に言ふ」必要は常識的に考えてみればなかろう。
 そうそう、そういえばこの「昭和7年」とは、以前関徳弥の例の『短歌日記』が何年に書かれたものかを考察した際に少し調べた年だ。そしてその当時の交通事情等に鑑みれば、その年の「ある勤務日」に露が上郷から花巻にやってくることはなかなか容易なことではない<*1>、というのが結論だった。
吉田 一方で、この「女の人」がちゑということもなかろう。これまたわざわざ東京から花巻にやって来て、「賢治氏を中傷的に言ふ」ことは常識的に考えてその必要性がないからだ。
荒木 そうすっと、この「賢治氏知人の女の人」とはもっと他の女性だったということも考えられないべが?
鈴木 確かにそれは言い得て、露やちゑ以外にも賢治をめぐる女性がいた可能性がある、しかもそれは全部で5人であるとさえも言っている教え子がいる。
 というのは、以前少し話題にした賢治の教え子簡 悟の次のような証言、
 森さんは宮沢賢治をめぐる三人の女性を書いておられるが、実際は、五人の女性があります。二人の女性については、すでに話題になっておりますが、あとの二人は現存してる人達だし、何も徳義に欠けた行動をとつた人達ではないから申し上げてもいいようなものの、お話しする機会もそのうちあると思います。先生はその時も、私は遠からず結婚するかもしれぬと申されましたが、それはついに実現しませんでした。
             <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)275pより>
があるからだ。
吉田 この「二人の女性については、すでに話題になっておりますが」という文脈からは、この二人とは露とちゑのことであることがわかるから、妹のトシを含めたこれらの三人以外にも賢治をめぐる女性、それも「私は遠からず結婚するかもしれぬ」と賢治が簡に話した女性までもがいたというわけか。となれば、もしかするとさっきの「賢治氏知人の女の人」とはこの人のことだったということもあり得るな。
鈴木 そうか、なるほど。もともと関登久也は信頼に足る人だし、簡は、
 農学校で実習などをしている時、一寸のひまに、
「簡君、遊びに来い。」
とおつしやつて下さいましたので、しばしばお宅をお訪ねしました。御病気が大部悪い頃にも伺いましたら、もうその頃は面会謝絶をされておられました。先生のお家の人に伺いをたてると、簡君なら逢いたいと言つて、特別に何度も病床でお話を致したこともあります。
            <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)276pより>
ということも証言しているということだから、関と簡の二人の一連の証言は共に信憑性が高いと言えそうだからな。
荒木 それは納得。ただしこのエピソードの中身がどんな中傷だったのか、それがわからんことには次に進むことは難しいべ。
鈴木 確かにその通りなのだが、実はそれ以前の問題がそこにはありそうなんだ。

<*1:註> 昭和5年の「岩手軽便鉄道の時刻表」(『汽車時間表 第六巻第十號』(日本旅行協會)230p所収)によれば、
   遠野→花巻の本数は一日6本で、遠野始発は 5:30、同終発は 17:55
逆に
   花巻→遠野の本数も 同 6本で、花巻始発は 5:40、同終発は 17:27
である。よって、花巻~遠野間の所要時間は約2時間50分ほど。
 なお、当時露は上郷小學校に勤めていたから上郷駅から乗ることとなり、
   花巻行き 上郷駅発 10:10、12:35、15:45、17:05
の4本、花巻までの所要時間は約3時間10分ほど。
 したがって、結婚したばかりの露が、平日勤務の上郷小學校からたった4本しかなかった軽便鉄道に乗って約3時間ちょっとをかけて花巻にやって来ることはなかなか容易ではなかったはずだ。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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