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ちゑとの結婚話が再燃したようだが

2021-02-16 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
〈『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)〉

 さて、私は前回の最後の方で
 そこで私はかえって違和感を感じてしまった。これほどまでに賢治が急いで上京する理由は壁材料の宣伝のためばかりだったとは思えなくなってきたからである。そしてそう思ったわけは次の三つだ。まずその一つ目は、大正10年の家出期間は7ヶ月程、羅須地人協会の活動もその期間は7ヶ月前後、今回の東北砕石工場技師についてもそろそろ7ヶ月ほど経ったからである。賢治は一つのことをどうも長続きできないという性向があり、ある一定期間が過ぎるとさっさと次に移っていくという淡泊さがあり、岩手県人特有の「粘り強さ」が少ないように見えるからだ。二つ目は、昭和3年の農繁期の上京は「逃避行」だと佐藤竜一氏はいうが、この昭和6年の上京もそれと似ているような気が私にはしてならないからだ。そして三つ目は、昭和6年7月7日の賢治に関する森荘已池の証言が引っかかるからだ。
と述べた。
 そしてこのことに関してはもう一件、大事なことをその後思い出した。それは、前々回の投稿〝炭酸石灰普及からウエイトはセールス活動へ〟で触れた、『新校本年譜』の昭和6年7月9日の項に載っている、賢治のエキセントリックな次の言動だ。
 なおこの頃に、花巻駅で小原弥一(八重畑小学校教員時代、高日義海家の集会で同席する)にあい「冷害が心配で視察に行くところです」といい、「いま岩手県を救う道はモラトリアムをやることです」と大声をあげる。小原が問い返すと「岩手県は借金だらけです。この借金を返さないことなんです」と説明をはじめ、その声があまりに大きいので駅派出所の白鳥巡査がとびだして傍にきたがなおも大声を出し借金不払説をとなえ、白鳥巡査は危険思想かと緊張したが、改札開始時刻になったために事は了る
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)453pより>
 つまり、周りの目も憚らずに賢治は声高に借金不払説などを公衆の場において唱えていたということであり、この昭和6年7月頃の賢治はかなり精神的にハイテンションな状態にあったと思われる。

天と地がひっくりかえると同じことじゃないか
 そしてこれと符合するのが、前触れしておいた「昭和6年7月7日の賢治に関する森荘已池の証言」であり、同日の賢治に関する次のような一連の証言である。
 どんぶりもきれいに食べてしまうと、カバンから二、三冊の本を出す。和とぢの本だ。
「あなたは清濁をあわせのむ人だからお目にかけましょう。」
と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だった。春信に似て居るけれど、春信ではないと思う――というと、目が高いとほめられた。
 …投稿者略…
 宮沢さんも、そうだそうだという。そして次のようにいった。
「ハバロック・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちっとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になって、伏字にしなければならなくなりますね。」
 こんな風にいってから、またつづけた。
「禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病気になったのです。」
 自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻転ではない。天と地がひっくりかえると同じことじゃないか。
「何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきりムダでした。」
 そういってから、しばらくして又いった。
「昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといったそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな偽善に過ぎませんよ。」
 私はその激しい言い方に呆れる。
「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしょうね。」
と私は答えた。
「いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう。
 石川善助が何か雑誌のようなものを出すというので、童話を註文してよこし、それに送ったそうである。その三四冊の春本や商売のこと、この性の話などをさして、「私も随分かわったでしょう、変節したでしょう――。」
という。
「いや自分はそうは思いません。」
と答えたが、
「そう思う人があるかも知れませんね」
とも答えた。
             <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)176p~より>
 いみじくも、賢治自身が
    禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病気になったのです。
とか、
    何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきりムダでした。
はたまた、
    その三四冊の春本や商売のこと、この性の話などをさして、私も随分かわったでしょう――。
と言ったということをあの森荘已池が活字にして証言しているのだから、これらの証言にまず嘘はなかろう。
 したがって、もはや賢治はかつてのような賢治ではなくなってしまった、賢治は変節してしまったと言える。もちろん、そのような賢治はまさに《愛すべき賢治》であるのだが、どうやら、この頃の賢治は精神的にかなりハイな状態にあったと結論できそうだ。そしてこのことは、今後人間賢治を見ていく上での一つのポイントになってゆくであろう。

ちゑとの結婚話再燃
 その当時(昭和6年7月7日頃)賢治がハイテンションであったということは、同じく前掲書の中の次の記述からも窺える。
 「実は結婚問題がまた起きましてね。」
という。
 「どういう生活をしてきた人ですか。」
と私がきく。
 「女学校を出て、幼稚園の保母か何かやって居たということです。」
 「それで意志がおありになるのですね。」
と私がいう。
 「遺産が一万円とか何千円とか持っているということなのでしてね、いくらおちぶれても、金がそんなにあっては――。」
と宮沢さんはいった。
 「ずっと前に私との話があってから、どこにもいかないで居るというのです。」
 私はそれは貞女というものですという。
 「自分のところにくるなら、心中のかくごでこなければなりませんからね」
 そういうので、どうしてですかときくと、
 「いつ亡びるか解らない私ですし、その女の人にしてからが、いつ病気が出るか知れたものではないでしょう」
と答えた。
             <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)174p~より>
 もちろん会話の中に出てくるこの女性とは伊藤ちゑのことである。過ぐる昭和2年の10月に賢治が「見合い」をしたと判断できるちゑと、昭和6年7月7日頃になって今度は、賢治はちゑと結婚してもいいと心に決めつつあったという蓋然性が高いことが読み取れる。この7月7日の森荘已池とのやりとりからは賢治のうきうき気分が伝わってくからである。それは、その1週間ほど前の7月1日及び2日の両日にわたる盛岡での搗粉販売営業では惨憺たる結果だったというのに、賢治はそんなに落ち込んでいる様子もなかったからだ。しかし、肝心のちゑの方はそんなことなどは全く考えていなかった<*1>から、そこには微笑ましい賢治の「思い込み」が垣間見られる。まさに《愛すべき賢治》と言えよう。

賢治も普通の男に
 似たようなエピソードは他にもある。それはこの日から少し下った昭和6年8月23日のことである。『賢治と嘉藤治』所収の「藤原嘉藤治略年譜」には、
 昭和六年八月二十三日 宮沢賢治、八重樫祈美子、木村コウらと東公園にて座談会を催す。
              <『賢治と嘉藤治』(佐藤泰平編著、洋々社)235pより>
とある。そしてこの拠り所は、藤原嘉藤治が『新女苑』(昭和16年8月号)に寄稿した追想「宮澤賢治と女性」の中の次のような記述のようだ。
 また昭和五年の夏の夜を記憶してゐるが、花巻の東公園の音楽堂で東京から帰省中の女性を囲んで座談会をやつたことがある。この夜の彼は、両親から限られた外出時間の許しを得て、病床から抜け出して来て参加した。この集りは、実のところ彼の日頃からの要求を入れて、僕が斡旋したのであつた。会を終へてから二人で、焼酎入りの薄荷糖をかぢり、ほの白い北上川を見下ろし乍ら話あつた。彼は「近来にない郊宴に招かれた」といつて大変よろこんでゐた。この席に列した女性の中に木村コウ子が居た。花巻高女出身で、先年亡くなつたが、この女性を彼はその時ひどく買つてゐた。彼女は上野の音楽学校在学中で、賢治の「春と修羅」の愛読者で、水彩や油絵もやる文学乙女であつた。彼女の一口二口の話し振りや、瞳の叡智的なしかも純情な輝きで、ぐつと感じたらしい。ところが不思議にも、彼女の容貌や体躯、趣味や智性も、前記の伊藤チエ子と、そつくり似てゐるのである。
              <『賢治と嘉藤治』(佐藤泰平編著、洋々社)74pより>
 ただし、藤原嘉藤治は後年、「昭和五年の夏」のことを『わが年譜』および「東公園の夜」と題したメモには「昭和六年八月二十三日」と訂正していることを佐藤泰平氏は知った(前掲書50p)ので、前掲のような月日で年譜に記載にしているのだろう。
 さらにこの木村コウ子(杲子)に関して高橋文彦氏は、 
 みな子(木村圭一の妻、杲子の義姉:投稿者註)は言う。
「たまさんがここ(実家)を訪れたときに、杲子と賢治のことを話題にして、賢治が杲子のようなひととなら結婚してもいい、そう言っていたと私に語ってくれました」
 一方、…藤原嘉藤治は…ときおり…ひろの家を訪れ、たまを交えて談笑したという。
 ここでも〝賢っあんは杲子となら結婚してもいいと話していた〟ことが話題にのぼった。
             <『宮沢賢治第5号』(洋々社)116pより>
ということでもある。
 したがって、どうやら少なくともこの頃の賢治に限って言えば、一般に言われているような堅物の賢治では全くなくて、普通の男とそれほど違わない賢治になっていたという可能性が極めて高そうだ。昭和6年7月7日に盛岡になんのために行ったのかは私にはしかとはわからないが、「カバンから二、三冊の本を出す。和とぢの本だ」というような賢治だからなおさらにである。だからもしそうであったとするならばそこにも《愛すべき賢治》がいる。

<*1:投稿者註> 伊藤ちゑが森に宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の次のような一節からまず窺える。
 皆樣が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られますあの御方に、御逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の爲に、私如き卑しい者の関りが必要で御座居ませうか。あなた樣のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆樣の陰にかくれて靜かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓ひ申し上げた事(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。
             <『宮澤賢治と三人の女性』157pより>
 つまり、ちゑは賢治と「約丸一日大島の兄の家で御一緒」してみて、賢治とは結婚できないということを、ちゑ自身が「あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた」とはっきり言い切っている。また、わざわざ「(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)」と書き添えて、家族も反対しているのだと駄目押しさえもしている。
 さらに、ちゑと賢治を結びつけようとする原稿や記事について、
 今後一切書かぬと指切りして下さいませ。早速六巻の私に関する記事、拔いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。…(投稿者略)…
 さあこれから御一緒に原稿をとりに参りませう。口ではやはり申し上げ切れないと思ひ、書いて参りました。どうぞ惡からずお許し下さいませ。取り急ぎかしこ。
             <『宮澤賢治と三人の女性』158pより>
とちゑは森に懇願していることから、「ちゑの方はそんなことなどは全く考えていなかった」が裏付けられる。余程結びつけられることが嫌だったのだろう。「六巻」ということだから、十字屋書店版『宮澤賢治全集第六巻』からは関連する原稿を抜いて欲しい、さあ一緒に取りに行きましょうとまで言ってちゑは森に迫っていたくらいだからだ。
 さらには、藤原嘉藤治宛ちゑ書簡中にも、
 又、御願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうにいんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます。
と書いているから、ちゑは賢治との結婚については拒否していたという蓋然性は高い。のみならず、ちゑは賢治との見合いについて、後に『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』と深沢紅子に語っているから、なおのことだ。
 ところが、そのようなちゑのことを、少なからぬ人たちが「賢治が結婚したかった伊藤ちゑ」と言っている。そこでであろう、
高瀬露が多くを語らないからと好き勝手に書くのも悪質ですが、
伊藤チヱがこうやって一生懸命に訴えているにもかかわらず
それを無視して書いてしまうのもまた悪質です。
tsumekusa氏は主張しているし、私もその主張を支持している。露のみならず、ちゑも被害者だと。

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