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2 思考実験(改竄の背景等)

2024-09-05 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)

2 思考実験(改竄の背景等)
 さて先の考察の結果、私としては改稿の必要性は全くないと判断できたので、もしかするとこのことは当事者のM氏自身も実はそう認識していたのではなかろうか、と思わざるを得なくなった。

 関の賢治関連著作について
 先にも少し触れたように、当時『賢治随聞』のような著作をM氏がかたっているような理由で出版したかったのであれば、他人の著作をここまで改稿したりせずに、既に関登久也本人が出版していた『宮澤賢治物語』(岩手日報社)をそのまま再版した方がはるかに良かったのではなかろうか。
 ところが現実はそうでなかったということは、逆に言えば、このような表向きの改稿理由ではなくて隠された事情が実はあったのではなかろうかということも探らねばなるまい、ということになるのだろうか。
 そこで、まずは宮澤賢治関連の関登久也の著作等を時系列に従って以下に並べてみよう。
【表8 関登久也の宮澤賢治関連著作等リスト】
(1)『宮澤賢治素描』關登久也著 協榮出版社        昭和18年9月15日発行
(2)『宮澤賢治素描』關登久也著 眞日本社         昭和22年3月5日発行
(3)『續 宮澤賢治素描』關登久也著 眞日本社        昭和23年2月5日発行
            <関登久也夫人岩田ナヲ没     昭和24年9月21日>
(4)『宮澤賢治物語』関登久也著 『岩手日報』新聞連載    昭和31年1月1日~6月30日
           <関登久也没            昭和32年2月15日 >
(5)『宮沢賢治物語』関登久也著 岩手日報社        昭和32年8月20日発行
(6)『賢治随聞』関登久也著 角川書店           昭和45年2月20日発行
(7)『新装版 宮沢賢治物語』関登久也著 学習研究社     平成7年12月12日発行

 このリストを概観してみると、なぜわざわざ関登久也の名で『賢治随聞』がこの時期に出版されたのかやはり不自然だ。もう既に関登久也は(1)~(4)の四編を出版している訳だし、しかも、『賢治随聞』が出版される10年以上も前に関は既に亡くなっているからである。
 百歩譲って、『賢治随聞』が出版された昭和45年頃になると『宮澤賢治素描』や『續 宮澤賢治素描』はたまた『宮澤賢治物語』が入手できにくくなったし、出版元では再版の予定もないということだからここは遺族の了解を得て別の出版元から再版したい、というようなことであればそれは分からぬことでもない。ちょうど関登久也のご子息岩田有史氏がそう考えて、後年〝(7)『新装版 宮沢賢治物語』〟を出版したのと同じように。ところがM氏はそのような理由で出版したとも説明しているわけでもない。
 あるいは、もしかするとこの『賢治随聞』の出版年「昭和45年」は賢治にとって何か特別意味を持った年次だったのだろうか。仮に、そのようなことがあって『賢治随聞』を出版したとでもいうような説得力に富む説明をM氏がしてくれていればこの不自然さを払拭できたかもしれないが、そのようなこともM氏は語ってくれている訳でもない。私などはせいぜいこの「昭和45年」頃について思い浮かぶことは、高瀬露が帰天した頃であり、一方で『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)の出版が胎動し始めたのがこの頃ではなかろうかということだけである。もしかすると、これらのことが遠因だったのだろうか。
 結局、隠された事情があったのかなかったのかこれらだけからでは私には解らなかったが、この著作等のリストを見ながら強く感じたことは、やはり『賢治随聞』の出版はかなり奇妙であるということである。

 『宮澤賢治物語』出版の意図
 ここまで辿ってきて、私は〝(3)『續 宮澤賢治素描』〟所収の「澤里武治氏聞書」のチェロに関する記載内容と、〝(4)『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)〟所収のそれとを比べてみると後者の方がより詳しいことを思い出した。ならば、『宮澤賢治物語』の出版の意図を知る必要があるぞ、と思い付いた。
 そこで実際に同書を見てみると、この『宮澤賢治物語』の「前がき」には、
 かつて私は「宮澤賢治素描」という本を書いたが、今読んでみるとあまり簡略すぎて、読む人に果たして了解してもらえるかどうかという不安をもつている。そこで、それらの素材をもう一度丹念に改めてみたいと思う。………①
       <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)より>
とあった。そこで私は、「やはりな。だからあのような表現を澤里武治はしたのか」とひとりごちた。というのは、昭和23年2月5日発行の『續 宮澤賢治素描』では、
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。…(略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。……②
となっていたのが、昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(49)』では、
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。…(中略)…その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。………③
となっているからだ。

 思考実験(『宮澤賢治物語』の改竄)
 これで準備はできたので、このことを織り込みながら次からは思考実験を試みる。

 実はM氏はあのような「改稿」理由を挙げてはいたが、その裏に隠された事情があったのである。 それを時の流れに沿って以下に説明する。
(1)  まずは、昭和23年以前に澤里武治は関登久也から取材を受けた際に 、
    確か昭和2年11月頃の霙の降る日にチェロを持って上京する賢治をひとり見送った。
という意味のことを答えた。これが②に当たる。
(2)  次に、この時の一連の聞き取り「澤里武治氏聞書」を所収した『續 宮澤賢治素描』が昭和23年2月に出版された。この出版により、その滞京中の三カ月間にわたるチェロのはげしい勉強で賢治は遂に病気になって帰郷したことが公に知られることになった。
(3)  同時にこの頃ある人物X氏はこの滞京の事情が広まることを憂慮した。このようなことが「羅須地人協会時代」の賢治にあったということになれば賢治のイメージにふさわしくないので、この滞京はなかったことにしようとX氏は動き始めた。
 そこでまずは手始めに、それまでは殆どの「宮澤賢治年譜」に記載のあった昭和2年9月の上京を「宮澤賢治年譜」から削除しようと思い始めた。併せて昭和3年1月の「…栄養不足にて漸次身體衰弱す」も同様にだ。
(4)  その後、『續 宮澤賢治素描』出版から約8年を経た関登久也は、前掲①のような理由から『正・續宮澤賢治素描』を丹念に改めた内容の著作を再び世に伝えようと思って、昭和31年1月1日~6月30日の『岩手日報』紙上に『宮澤賢治物語』を連載した。その連載のうち昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(49)』「セロ一」の中に上掲③が述べられていた。
(5)  ②と③は同じ時のことを言っている訳だが、『續 宮澤賢治素描』出版当時は問題にならなかったこの「昭和2年11月頃」について、新聞連載の時には問題が生じた。この際に澤里が基にして証言しなければならなかった「宮澤賢治年譜」はX氏からこれが正しい年譜だと言われて提示されたもので、それには昭和2年の賢治の上京はないことになっていたものだったからである。
(6)  それゆえ、澤里武治はそのことを訝しく思いながら、さりとて自分の記憶「昭和2年11月頃」には自信があるから、『續 宮澤賢治素描』では「確か昭和二年十一月頃」であった部分を『宮澤賢治物語(49)』では「どう考えても昭和二年十一月ころ」という表現にした。
 そこで、X氏は慌てた。この『宮澤賢治物語(49)』を読んだ読者の中には、澤里が妙な「宮澤賢治年譜」を基にして証言させられていることを敏感に察知した人物が居るのではなかろうかという不安に襲われたからだ。つまり、
 どう考えても賢治は昭和2年に上京しているはずだと澤里は思っているのに、澤里が見せられた「賢治年譜」には従前の年譜と違って「昭和二年には先生は上京しておりません」というものになっていて変である。
ということを、マスコミを通じて結果的に澤里は指摘したことになったと言える。
(7)  そこへもってきて、昭和32年にはこの新聞連載が単行本として出版される運びとなったのでX氏はさらに困惑した、この『単行本』化を避ける手立てはなかったからである。
 地方紙『岩手日報』の連載の場合であれば、澤里のこの指摘を読者は気付いてもその人数は限定的であり、全国的に知られることはなかろう。しかし単行本となればそれは違う。かなり多くの人が読む可能性が高いはずだから何とかせねばとX氏は思い悩んだ。
(8) ところが何と、その上梓直前に関登久也が急逝した。そこでX氏は大胆にも改竄という行為に及んだ。当の本人が亡くなったので、後事を頼まれた人物に近づき、
   ・昭和二年には先生は上京しておりません。

   ・昭和二年には上京して花巻にはおりません。
と書き変えたのである。
 このように書き変えれば、前者ならば賢治は昭和二年には賢治は上京していないと読み取り、後者なら賢治は昭和二年には花巻におらず上京していたと読者は読み取るであろうか。もちろん読者は釈然とせず、一体澤里武治は何と言いたかったのかと悩むであろう。その一方で、そこは思うつぼ、X氏は取り敢えずはカムフラージュはできるとほくそ笑んで。
 事実私がそうだった、何を言いたいのかそこからは読み取れなかった。おそらく、単行本『宮澤賢治物語』で初めて読む人は皆同様で、澤里のこの大切な指摘はぼやけてしまって、X氏は思惑通りカムフラージュができた。
(9)  さらには、昭和45年頃になると『校本宮澤賢治全集』出版の動きが始まったので、その全集所収の「宮澤賢治年譜」の資料として『宮澤賢治物語』が使われることをX氏は恐れた。X氏は改竄に関わっていただけに後ろめたさを抱いたからだ。
(10)  そこでX氏はM氏に『賢治随聞』の出版を慫慂し、併せて『校本全集』の「宮澤賢治年譜」の資料としてはこの『賢治随聞』に基づくようにと関係者に勧めた。
(11)  さらには念を入れて、M氏はその「あとがき」に「願わくは、多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい」と書き添えた。

 ここまでやれば、「改竄」したという事実もほぼ葬り去ることができるだろうとM氏は安堵した。まさか、元々の昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮沢賢治物語(49)』にまで遡って確かめるような奇特な人はいないだろうから、と。実際、一次資料に立ち返るという基本に則った賢治研究を私は殆ど見つけられずにいる。
思考実験終了

 なお、以上はあくまでも思考実験であり、これが歴史的事実であった等ということを私は主張するつもりはない。

 「三カ月は滞在する』の無視
 以前にも触れたように、賢治大正15年12月2日の「現定説❎」、すなわち、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち澤里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。 …………❎
             <「新校本年譜」(筑摩書房)325pより>
は「旧校本年譜」担当者B氏が「澤里武治氏聞書」(関登久也著『賢治随聞』所収)を元にして要約、編集したということのようだ。
 ところがもしそうだとするならば、実は「澤里武治氏聞書」では「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三カ月は滞在する、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」となっているのだから「現定説❎」の中の「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」の部分はこれと同じで内容のものでなければならない。しかし、不思議なことに「現定説❎」からは賢治が言ったはずの「少なくとも三カ月は滞在する」の部分がどういう訳かスッポリと抜け落ちているのである。
 さらには、その「澤里武治氏聞書」の中で澤里は、
そして先生は三カ月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。…………○三
        <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
ということにも言及しているのだが、この「○三」に関して現「宮澤賢治年譜」は一切触れていない。「澤里武治氏聞書」を典拠にしていながら、
(ア) 「少なくとも三カ月は滞在する」と証言しているのにそこは削除され、
(イ) 「○三」については一切抹消されている。
のである。
 しかし私には、どう考えてもはこうなる理由が見つからないから、それにしても不思議なことが多いものだと戸惑うばかりである。それゆえ、これほどにまでこだわって「現定説❎」のような書き方をしなければならないほどの、何かそこには読者には知らせられない理由でもあるのだろうかと、正直勘ぐりたくなる。

 疑うことから見えてくる
 いや待て、そのような浅ましい見方は止めよう。それよりは、学問の始まりは疑うことから始まるというではないか、ここはそれこそ疑ってみよう。というわけでここからは、そのための思考実験の始まりである。

(ア) について
 なぜこのようなことが起こったのか。それは単純に考えれば、「たまたま見落としてしまった」、ということがまず考えられる。とはいえ、まさかそのようなことを年譜担当者のB氏や関係者が起こす訳はない。『校本全集』と銘打つ以上、関係者は厳密な校合をせぬ訳がないからである。
 とすれば、この「削除」や「抹消」という行為は意図的に行われたということになろう。その理由は現時点では私にはしかとはわからぬが、大正15年12月に、チェロを持って賢治は上京したとは誰も証言していないのに「現定説❎」では「セロを持ち」とされていることと相通ずるものがあるということからほぼ明らかであろう。
(イ) について
 なぜこの「○三」が抹消されているのか。
 それはもしこの部分が記載されておれば、「あれっ、それじゃ大正15年12月2日の上京の際に賢治は三カ月間滞京していたのではないですか。しかしそんなことは現宮澤賢治年譜にはちっとも載っていないじゃないですか」という不信感を読者から持たれてしまう。
 しかも、「○三」であったということであれば、羅須地人協会時代の賢治像にとってそれはダメージが大きすぎるからこのことだけは何とか避けたいとある人物、X氏は思い悩んだ。そこで彼は実際「少なくとも三カ月は滞在する」の部分を故意に「賢治年譜」から削除し、併せて「○三」も抹消した。これで「賢治年譜」の大正15年12月2日は例の「現定説❎」で定着する、とX氏は胸をなで下ろした(もちろん。こんなことは許されないことの最たるものであり、天につば吐く行為である)。
思考実験終了

 なお、これが歴史的事実であったなどと言うつもりはもちろんない。あくまでも単なる私の思考実験である。

 続きへ。
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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