みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

3715 tsumekusa氏の主張を支持

2014-01-12 09:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
tsumekusa氏のある主張
 この頃、改めて『まさにそうだよな』と肯っていることがある。それは、ブログ『「猫の事務所」調査書』における、管理者tsumekusa氏の論考「もう一人の"被害者"」における主張についてである。
 具体的には、
賢治研究家、特にM氏やG氏の伝える「伊藤チヱ」という女性は
(彼らの伝える)高瀬露とは対照的に、まるで「聖女」のように描かれています。
しかしそれを裏返してみれば、彼女も高瀬露同様の「ひどい」扱いを受けている気がします。
という主張に対してである。
 そしてtsumekusa氏は、
伊藤チヱは昭和16年、M氏に対して
「自分のことを書くのはやめてほしい」という主旨の手紙を2回送っています。
ということを指摘し、
(ところが、)M氏は結局そんな伊藤チヱの願いを無視してしまいました。
       …(略)…
高瀬露が多くを語らないからと好き勝手に書くのも悪質ですが、
伊藤チヱがこうやって一生懸命に訴えているにもかかわらず
それを無視して書いてしまうのもまた悪質です。
と断じている。
 実際、そのM氏宛の2通の手紙を読んでみると、伊藤の必死な訴えが伝わってくる。たとえばそれは、昭和16年(投稿者推測)2月17日付M宛の書簡に
 ちゑ子を無理にあの人に結びつけて活字になさることは、深い罪悪とさへ申し上げたい。
             <『宮沢賢治の肖像』(M著、津軽書房)197p~より>
とあるように、強い調子で拒んでいることからも明らかである。しかし現実には、M氏はその懇願を無視して彼女を「聖女」に祭り上げようとしたし、実際そうなってしまった。
藤原嘉藤治にも懇願
 さて、私が今なぜこのような投稿をしているのかというと、実はこのような懇願を伊藤ちゑがしたのはM氏に対してだけではなく、藤原嘉藤治に対しても懇願していることが判ったからである。
 それは何年のものかは判らないが、10月29日付藤原嘉藤治宛の伊藤ちゑの書簡に
 又、御願ひで御座います この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄をお訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
と書かれた部分があるからである。伊藤ちゑは賢治と強く結びつけられることを拒絶していたのである。
 また一方で、そもそも昭和16年1月28日付M氏宛書簡にも伊藤ちゑ自身が
   あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視しておりました
             <『宮沢賢治の肖像』(M著、津軽書房)193p~より>
としたためているような、現段階ではその具体的内容を私からは公にできないが、これと似た内容の別な証言を、ここ1年ほどの間に3つのルートから私は教えてもらったからでもある。
二人の女性の矜恃
 まさに、tsumekusa氏が 
願いは聞き入れられず気持ちは届かず、
自分のことを大々的にそして過剰に美化されて伝えられてしまった
伊藤チヱの心の傷は如何ばかりだったでしょうか。
良く書かれたか悪く書かれたかの違いはあれど、
伊藤チヱも高瀬露と同じ被害者なのではないかと考えています。
と論じているとおりで、私は何度も頷いた。伊藤ちゑは自分が<聖女>扱いされることを拒絶し続けていたというのに、と。
 と同時に、
 彼女は生涯一言の弁解もしなかった。この問題について口が重く、事実でないことが語り継がれている、とはっきり言ったほか、多くを語らなかった。
上田哲が述べている高瀬露の身の処し方の見事さと相通ずるものがあり、そこに、それぞれの矜恃を私は見い出さざるを得ない。

 続きの
 ””へ移る。
 前の
 ”「ライスカレー事件」とオルガン演奏”に戻る。

みちのくの山野草”のトップに戻る

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 奇矯な賢治(『新校本年譜』に... | トップ | 奇矯な賢治(心変わりしてしま... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治渉猟」カテゴリの最新記事