《『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』の改訂版》
4 チェロの入手について
エスペラントとチェロ
さて、賢治はいつ頃からエスペラントを習い始め、いつごろから本格的に学び始めたのだろうか。
このことに関しては、『世界の作家 宮沢賢治 エスペラントとイーハトーブ』(佐藤竜一著、彩流社)によれば、遅くとも大正15年の秋頃までには本腰を入始めていたであろうことが推測される。
同書には、例の『アザリア』の仲間である小菅健吉の追想に「大正十五年の秋」というものがあり、そこには次のようなこと
大正15年の秋、米国から帰国した小菅は帰朝挨拶のために母校花巻農学校を訪れ、その際下根子桜にも立ち寄ったが、その折賢治が次のように語ったという。
と紹介されていたからだ。よってこのことから、賢治は大正15年の秋に小菅に「エスペラント語を勉強して居る」と語っていることが導かれる。 当時、自費出版で、「春と修羅」「注文の多い料理店」を出したが、日本では解つて貰えないから世界の人に解つて貰う為に、エスペラント語で発表するので、エスペラント語を勉強して居るのだと云つて居た。<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左ェ門編著)250pより>
一方、大正15年12月に始まった羅須地人協会での講義だが、その講義予告表の中に、
三月中 エスペラント地人學藝術概論
<『イーハトーヴォ第一期』(菊池暁輝著、国書刊行会)
とあるし、『大正十六年日記』(いわゆる「手帳断片A」)の1月1(土)」の欄に、
国語及エスペラント
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408pより>
とあることから、その後も賢治はエスペラントの学習を継続していたことが確かであろう。
そして、大正15年年12月の上京の大きな目的の一つにエスペラントの学習があったこともまた確かであろう。それは、政次郎宛書簡「222」〔十二月十五日〕に賢治が次のようなこと、
毎日図書館に午後二時まで居てそれから神田へ帰って…(中略)…午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238p~より>をしたためていることからも言えるだろう。
もちろんそれは、例の羅須地人協会の講義予定表中の「三月中 エスペラント」の講義のための準備ということもあったであろうが、エスペラントの学習はそれだけのためでないことも大津三郎の次のような証言から明らかであろう。
(「三日間のチョロの特訓」に関して)その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立つたか、と訊ねたら、「エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…」とのことだつた。
<『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)5pより>しかし、ここで注意したいのは大正15年12月12日付政次郎宛書簡「221」で、
いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)237pより>と言っていることにである。この賢治の言に従うならばこの時の滞京の大きな目的の一つに、
詩作の必要上、オルガンの悪い処を直して貰ふこと
があったということを「12月12日」時点で賢治は言っている訳である。
ところが先の大津の証言に従うならば、おそらくこの12月末頃の「三日間のチェロの特訓」の際に、
エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので……
と賢治自身が言っている訳だから、賢治の滞京の当初の目的は、 詩作の必要上オルガンの悪い処を直して貰ふこと
⇒
(エスペラントの)詩作の必要上はオルガンの悪いところを直して貰うよりをセロを学ぶこと│
へと変化していった、ということが言えそうだ。
もしこの私の推論が事実に即しているとすれば、この賢治の変化は少なくとも「大正15年12月12日」以降に起こったということになるであろう。
つまり
◇賢治は大正15年12月の上京の際は初めからチェロを学ぼうと思っていた訳ではなくて、滞京中のある時点から、次第に「どうもオルガンよりセロ」の方を学ぶべきだと思うようになっていった。
と言えよう。東京でチェロを入手
以前から、賢治のチェロにはその胴の中にサインがあるということは伝聞していたが、その写真が『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)の口絵に載っていることを知った。その写真
を見てみると、確かに
1926.K.M.
というサインがあった。この「1926」とはもちろん1926年、すなわち大正15年のことだろうし
「K.M.」とはKennji Miyazawa のK.M.である。
ことは間違いなかろう。したがってこのチェロは1926年(大正15年)に賢治が購入したものだと言えそうだ。
ところでこのチェロをどこで購入したかは現時点では判明していなようだが、『チェロと宮沢賢治』の中で著者横田庄一郎氏は、もし地元花巻で購入したのであれば「このあたりからの証言が出てきてもよさそうなものである」(『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)52p)と指摘する。たしかに地元にいる私もそのような伝聞は聞かない。
一方で、「思い出対談 音楽観・人生観をめぐって」という対談の中で井上敏夫の質問に対して、
そのうちに宮沢君もチェロが欲しくなったのか、東京で一八〇円だかで買ってきました。
<『宮沢賢治 第5号』(洋々社)22pより>と藤原嘉藤治が答えている。
また、横田氏は前掲書でこのチェロは「鈴木バイオリン製の六号だということがわかっており、当時の価格表によると百七十円だったのである」(前掲書51p)ということ、しかもこの6号とはチェロの中では最高級品だったこと、また、チェロ本体に弓も含めればその合計価格は約一八〇円になるだろうともいうことも教えてくれている。
さらに同書には、
賢治がチェロを習いに上京するとき、教え子沢里武治は、この箱にヒモをつけて運んでいった。ヒモは縄だったという。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)58pより>とも書かれてあった。
そういえば、『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)の「澤里武治の略年譜」の中にも、
賢治のセロを背負い花巻駅同行し、賢治の上京を見送る。
とあったことを思い出した。この略年譜の記載内容とこれは符合するから、賢治はチェロを納める「セロ箱」も同時に購入していたことは間違いなかろう。
すると、同書に載っている価格表には50円と60円の「セロ箱」があるから、最高級のチェロ6号と弓とセロ箱の一式で合計価格は
180円+(50~60円)=230~240円
となる。
このことに関して、次のような鈴木バイオリン製造株式会社の鈴木社長の
賢治が買った当時、最高級品のセロは数えるほどしか作っていなかったのだと思います。
とか、
私は研究したわけではないんですが、賢治のセロは東京で買ったものだと思います。
というコメントがやはり横田氏の前掲書(60p)に載っている。
したがって以上の事柄を総合すれば、賢治はこのチェロをやはり東京で買った可能性の方が大である、と言えそうだ。
大正15年末チェロ入手
それにしても、花巻農学校を依願退職する頃の賢治の月給は約一〇五円(『宮澤賢治の五十二箇月』、佐藤成著、3pより)ということだから、このチェロ一式(約230~240円)を購入するためにはその2ヶ月分以上を要するほどの高額であった。となれば、滞京中の賢治はそのような大金を一体どうやって工面したというのだろうか。やはり、上京中に父政次郎に無心したあの「二百円」がこのチェロを買うためのお金だったのかもしれない、などと想像したくなった。
ところで、賢治は大正末(正式には昭和元年末)に「チェロの特訓」を受けて後、直ちに帰花したと判断していいということは先に述べた。それではその際に既に鈴木バイオリン社製の最高級のチェロ一式を賢治は入手していたかについてだが、結論から先に言ってしまえば入手していた可能性の方が極めて高い。
なぜならば、大津三郎が「三日でセロを覺えようとした人」において次のように語っていて、
第一日には楽器の部分名稱、各弦の音名、調子の合わせ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階、第三日にはウエルナー教則本第一巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、歸宅してからの自習の目やすにした。ずい分亂暴な教え方だが、三日と限つての授業で他に良い思案も出なかつた。
<『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)より>この中に、
説明したり奏して聞かせたりして、歸宅してからの自習の目やすにした。
という大津の証言があるからである。つまり、この証言は、賢治が下宿先の神田「上州屋」に戻ってからチェロの自習をしたということを意味しており、
◇大正15年12月末賢治は鈴木バイオリン社製最高級のチェロ一式を入手していた。
ということが必然的に導かれる。これが、現時点での私の判断である。
大正15年12月30日帰花
さて、尾崎喜八の証言等を基にして、
◇大正15年12月末念願叶って最高級のチェロを手に入れた賢治は、急遽大津三郎から三日間のチェロ特訓を受け、彼から貰った『ウエルナーの教則本』を携えて下根子桜に戻った。
と結論していいのだと私は判断しているが、ここからはその後のことについて述べたみたい。まず、宮澤賢治の大正15年12月の上京の際の帰花の時期についてである。通説ではいつ帰花したということになっているのだろうか。残念ながら、「新校本年譜」にはその年月日は明記されていないから通説はないようだ。
ならば、ここは政次郎宛書簡「222」の中にある「…廿九日までこちらに居るやうにおねがひいたします」及び同「224」の「…二十九日の晩にこちらを発って帰って参ります」のとおりであったとして、
◇賢治は大正15年(正しくは昭和元年)12月29日に東京を発って花巻に戻った。
ということにしてもそれほど間違いはなかろう。
ところで『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料編』によれば、
「…二十九日の晩にこちらを発って」とあることから、予定通りであったとすれば東北線下り一〇一・一〇七・一〇五・二〇一のいずれかを利用したことになる。
とあり、同書によれば具体的には、 列車番号 上野 花巻
一〇一 18:20 08:21
一〇七 20:05 11:53
二〇一 22:30 10:51
一〇五 23:25 14:31
<ともに『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料編』一〇一 18:20 08:21
一〇七 20:05 11:53
二〇一 22:30 10:51
一〇五 23:25 14:31
(筑摩書房)228pより>
ということである。したがって、いずれにしても翌日すなわち12月30日には花巻に戻っていたであろう。
「ぎいん、ぎいん」
ところで、賢治の友人阿部孝が「大正の終わる頃」というタイトルの追想を『四次元 百五十号記念特集』に寄せていて、その中に
二、チェロを弾く賢治
いつの頃からか、賢治は、野中の一軒家のあばら屋にひとり籠つて、食うや食わずの生活をしながら、毎日チェロを弾いていた。
チェロを弾くといえば、聞こえがいいが、実はチェロの弦を弓でこすつて、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いつぱいで、それだけでひとり悦に入つていたのである。
<『四次元 百五十号記念特集』(宮沢賢治研究会)24p~>いつの頃からか、賢治は、野中の一軒家のあばら屋にひとり籠つて、食うや食わずの生活をしながら、毎日チェロを弾いていた。
チェロを弾くといえば、聞こえがいいが、実はチェロの弦を弓でこすつて、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いつぱいで、それだけでひとり悦に入つていたのである。
と賢治のチェロについて語っている。
大正15年末、帰花直前に賢治は鈴木バイオリン社製の最高級チェロ一式を手に入れて、下根子桜に持ち帰った賢治は友人阿部孝の前でそれを見せびらかし、弾いてみせたに違いない。そしてその様が阿部にすれば「ひとり悦に入つていた」ように見えたのであろう。
なお、賢治の帰花が「大正15年(正しくは昭和元年)12月末」で、阿部がチェロの「ぎいん、ぎいん」を聞いたのが「大正の終わる頃」だということであれば問題が生ずる。大正の終わったのは大正15年12月25日だから、同月26日以降は昭和元年となり、これだと阿部孝のタイトルは厳密には「昭和の始まりの頃」でなければならないからである。とはいえ、許容範囲と考えていだろう。なお、後述するような理由から阿部が「ぎいん、ぎいん」を聞いたのは12月内のことであろうと推測できる。
なお、この追想で阿部はこのチェロを、
町の古道具屋で買いこんできた中古のチェロ
としているが、それは賢治のついたおそらく嘘であり、阿部から
レコード集めに血道を上げて揚句のはてに、とうとう自分自身で、楽器の音を出してみなければ満足ができなくなつた彼が…
<『四次元 百五十号記念特集』(宮沢賢治研究会)25p~>と見くびられているような賢治とすれば、そう嘯くしかなかったのであろう。
政次郎と賢治のチェロ
ところで、次のような宮澤清六の証言があったことを横田庄一郎氏が紹介している。
羅須地人協会のきびしくなっていく生活が続いて、賢治は一九二八(昭三)年夏に病に倒れ、実家に戻った。このときになって初めて、父親政次郎は賢治がチェロを持っていることを知った。佐藤泰平・立教女学院大学教授が賢治の弟清六さんから聞いた話である。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽の友社)85pより>ということは、昭和3年8月上旬に賢治が病気になって実家に戻るまでは、父政次郎は賢治がチェロを持っていたことを少なくとも知らなかったということを意味している証言となろう(もちろん、清六は賢治が下根子桜時代にチェロを買ったことは既に知っていたであろうし、その現物も見ていたであろうが)。これは逆に考えれば、あの大金「二百円」の無心はやはり最高級のチェロ一式購入のためだったのであり、そのことを父に覚られたくなかったから賢治はチェロを持っていることをそれまで教えていなかったのであろうとも推測できる。
これと似たようなことを板谷栄城氏が『素顔の宮澤賢治』において述べていて、
筆者が沢里武治から直接聴いたところでは、この時黒いチェロのケースに紐をかけて肩に背負い、羅須地人協会から駅に直行したそうですが…(中略)…。羅須地人協会から駅に直行したということは、チェロのことを父親に知られたくなかったということを示唆します。
<『素顔の宮澤賢治』(板谷栄城著、平凡社)74pより>と指摘している。
たしかにこの前半の内容は、横田庄一郎氏がやはり澤里本人から得た証言に基づいて述べいるのであろう、
ケースは、チェロの形に合わせた黒い木の箱だった。教え子沢里武治は、この箱にヒモを付けて駅まで運んでいった。ヒモは縄だったという。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)58pより>という記述とも符合する。
ちなみに、下根子桜の宮澤家別宅から花巻駅まで行くのであれば、その途中に賢治の実家が地理的にも位置している訳だから、普通の上京であれば途中で豊沢町の実家に最低限顔を出すぐらいはするであろう。ところがその際賢治がそうしなかったということは、板谷氏の指摘どおりチェロを持って上京することを知られたくなかったという可能性が高そうであるし、あるいはそれ以上に上京そのものを知られたくなかったという可能性すらある。
やはり矛盾を抱えている
ここで少し視点を変え、父政次郎に宛てた書簡からこの「知られたくなかった」ことに関して少し考えてみたい。
「現通説」では、霙の降る大正15年12月2日、澤里武治がチェロを背負って賢治と一緒に花巻駅へ行ったということになるが、もしそうであるとするならば、賢治がその際に父に会わずに直接花巻駅に行ったということはあり得ないのではなかろうかという疑問が、父宛書簡の文面から生じる。
それは大正15年の次の書簡の中に
220〔十二月四日〕宮澤政次郎あて
……小林様へも夕刻参り香水のこと粉石鹸のこといろいろ伺ひました。
<『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)304pより>……小林様へも夕刻参り香水のこと粉石鹸のこといろいろ伺ひました。
と書いているからであり、
222〔十二月十五日〕宮澤政次郎あて
……今年だけはどうか最初の予定通りお許しねがひます。
……今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。
<『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)307pより>……今年だけはどうか最初の予定通りお許しねがひます。
……今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。
と書いているからである。
これらの内容からは、賢治はこの時の上京については父政次郎と上京前にかなりのことを相談し合っていたことが容易に導き出せる。前者の「香水のこと粉石鹸のこといろいろ伺ひました」とは政次郎から事前に託されていた小林六太郎との商売上の交渉のことであろうし、後者からは賢治の滞京中の予定や予算のことを上京前に政次郎に相談していたことが導かれるからである。
となると、これらのことは大正15年12月2日の「現通説」とやはり矛盾することになる。なぜならば、澤里武治の証言に基づけば賢治は父政次郎に上京を知られたくなかったとみられる行動をしている一方で、賢治自身のこれらの書簡からはこの上京に関しては事前にかなり父政次郎に相談していたことが窺える訳で、父にその上京を知られて困ることは賢治には何もないはずだからである。
ではこのような矛盾がなぜ起こっているのか。それはもちろんこの場合も、
どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが…(中略)…その十一月のびしょびし霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
と澤里は証言しているのに、「通説○現」はその上京を、
大正十五年一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
としているからである。そもそも「通説○現」は澤里武治の証言(『宮澤賢治物語(49)』や「沢里武治氏聞書」に載っている)に基づかざるを得ないのに、その澤里の証言自身が「通説○現」の持つ矛盾点をいみじくも指摘しているということになる。自家撞着してますよ、と澤里の証言が忠告していることになる。
そこで私は主張したい。「沢里武治氏聞書」や『宮澤賢治物語(49)』における澤里武治の証言に基づくならば、
◇大正15年12月2日の「現通説」は矛盾を抱えている。なおかつその矛盾は解消できない。
◇仮説「♣」ならば全く矛盾を生じない。また他のことも合理的に説明できる。
と。◇仮説「♣」ならば全く矛盾を生じない。また他のことも合理的に説明できる。
バターのお土産
最後に、前に触れた「バターのお土産」、賢治が大津三郎宅を訪れた際にバターのお土産を持って行ったということについてここでは述べたい。
それは、『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』の中で次のように語られている。
大津三郎の次女川原日出(元近衛管弦楽団ヴァイオリニスト)は、母つや子から聞いたことを話してくれた。
「母は賢治が来たといわれている一九二六、七年ころは、生まれたばかりの私や子供のことでたいへん忙しかったから、父の来客のことは覚えていないんですね。賢治については『新聞紙にくるんだバターをお土産に貰ったことしか覚えていない』と言っていたのね」
<『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』 (中丸美繪著、新潮文庫)116p~より>「母は賢治が来たといわれている一九二六、七年ころは、生まれたばかりの私や子供のことでたいへん忙しかったから、父の来客のことは覚えていないんですね。賢治については『新聞紙にくるんだバターをお土産に貰ったことしか覚えていない』と言っていたのね」
さて、もしこの話が事実であったとするならば、賢治のこの時の大津三郎宅訪問は寒い時期のことであったということになろう。これを大津三郎の記憶どおり「大正十五年の秋」だったとすると、バターが可塑化するのは15℃前後のようだから、バターを手土産とするには時期的に秋では難しそうである。そういう意味では「秋」ではなくて「冬」の方がふさわしい。実際賢治が大津三郎を訪ねたのは「秋」ではなくて大正15年12月だったと考えれば、手土産としてバターを大津家に持参したということは時期的に十分あり得ることであろう。
ところで、その場合賢治は一体どこでそのバターを手に入れたのだろうか。もちろん花巻から持参するということはあり得なかったであろう。このときの上京は12月初旬だったのだから暖房の効いた汽車の中で持参したバターは溶けてしまったであろうからである。したがって、そのバターは東京で買ったものと推測できる。それもわざわざ賢治がお土産として持参するのであれば、普通のものではなくて岩手に関係するものが有力である。
そこで当時東京で「小岩井バター」が市販されていたかどうかを知りたいものだと思って、「小岩井農場」の「小岩井農場資料館」に電話してこのことをお訊ねしてみた。すると小岩井農場では明治時代から既に「明治屋」を特約店として東京でもバター販売をしていたということを即答で教えてくれた(さすが小岩井農場資料館!、と感心)。
それを受けて、「明治屋」にも同じ件で問い合わせみたたところわざわざ調べてくださり、明治35年より「小岩井バター」を一手に販売していたということを教えてくれた(とても対応が丁寧で親切であったことに感激)。よって、賢治は東京の明治屋が一手販売していた「小岩井バター」を購って、新聞紙に包んだそれを手土産に大津家を訪ねたということが十分にあり得る。
バター持参は昭和2年上京時か
それから、よくよく考えてみれば手土産に「小岩井バター」を持って行ったということであれば、同時にチェロも持って行かねばならぬので物理的にそれはなかなか難しいことでもある。すると、最初の大津三郎宅訪問の際はチェロを持っていかなかったということも考えられるし、はたまたバターのみを持参して大津家を訪ねたのは別な機会かもしれないとも考えられる。
そしてその別な機会といえば、それこそ「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する」と言って滞京したその3ヶ月の期間中であったとも考えられる。
考えてみれば、前年の12月に無理を言った頼んだ「三日間のチェロの特訓」だった訳だから、なおさらそのお礼に賢治が大津の家を訪れるということは自然の成り行きである。
いみじくも例の註釈「*5」
大津の夫人つや子の記憶では、次女誕生の後で昭和二年のことであったかもという。…(略)…これらのことから、チェロを習いに上京したことが、昭和二年にもう一度あったとも考えられるが、断定できない。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡校異篇』(筑摩書房)123pより>
の中の「昭和二年にもう一度あったとも考えられる」にあるところの「昭和二年」に賢治はバターを持って一年前のお礼に伺ったということが十分にあり得るということである。
そしてそれは、まさしく仮説「♣」にあるところの「3ヶ月弱滞京」中にである。
ところで、賢治は当時菜食主義であったことは千葉恭の講演会(昭和29年12月21日)後の質疑応答からも知ることができる。千葉恭は次のような質問を受けて、
問 賢治の食生活についての考え方は。
答 賢治は菜食主義ではあつたが、バターや大豆などの脂肪蛋白は摂取していた。しかし魚や肉などは食べなかつた。
<「羅須地人協会時代の賢治(二)」(『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の會)12p)より>答 賢治は菜食主義ではあつたが、バターや大豆などの脂肪蛋白は摂取していた。しかし魚や肉などは食べなかつた。
と答えているからである。
そして、その菜食主義時代にあっても賢治はバターを食していたという興味深い証言である。このことからも、賢治が「小岩井バター」をお土産にしたことは十分あり得たであろう。
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
さて、以上で関連する証言等については全て網羅したつもりだ(管見ゆえに見落としもあるとは思うが)。したがって、これで証言等による仮説「♣」の検証は完了である。
その結果、ここまでに限って言えば、仮説「♣」の反例となるような証言等は一切ないことがわかった。同時に、この仮説を裏付けてくれたり、傍証してくれる幾つかの証言等があることもわかった。よって、仮説「♣」は現時点ではほぼ歴史的事実であると確信した。
続きへ。
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