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1 『賢治随聞』の出版はかなり奇妙

2024-09-04 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)
 「不都合な真実」
 その始まりは、『宮沢賢治物語』(岩手日報社、昭和32年8月発行)において何者かによる「改竄」行為があることに気付いたことであった。

1 『賢治随聞』の出版はかなり奇妙
 しかし私はその時からずっと、何故このようなことが為されたのかがいまひとつ解らないままにいた。

 関が出版できる訳がない
 それがある時閃いた。
     関登久也が『賢治随聞』など出版できる訳がないじゃないか。
と。 そして、もしかすると先の「何故」のヒントがそこにあるのではなかろうかと直感したのだった。私の頭の中は一気に、以下のような玉突き現象が起こり始めた。
(1) むっ?、あの『賢治随聞』を関登久也が出版などできる訳がないじゃないか! たしか関登久也は昭和32年に亡くなったはずだ。ところが『賢治随聞』の出版は昭和40年代のはずだ。関登久也が亡くなった後に、なぜどのようにして関登久也著『賢治随聞』が発行されたというのだ。
(2) 一方、「新校本年譜」の例の大正15年12月2日についての典拠は『賢治随聞』であることが、
  関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。
というその註釈から示唆される。
(3) この「二一五頁」とはそれこそ『賢治随聞』所収の、
  「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する」
などという証言が含まれている「沢里武治氏聞書」のことだ。
(4) しかし、これとほぼ同じ内容の「セロ」の話が所収されている『宮澤賢治物語』(岩手日報社)の方は既に昭和32年に出版されており、そしてそれはその前年の31年に『岩手日報』紙上に連載されたものだ。
(5) しかもこれと同じ内容の証言は、既に昭和23年に発行された『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」にも載っているし、それがこの証言の初出であり、一次情報だ。
(6) にもかかわらず、その初出の方ではなくて、しかもその後のものでもなく、あろうことか関登久也自身が直接出版したものでない方の、関登久也が亡くなってしばらく経ってから出版された最後の『賢治随聞』の方が典拠とされているのはなぜなのだろうか…。

 『賢治随聞』の「あとがき」
 私は慌てて『賢治随聞』を本棚から引き抜いた。案の定、『賢治随聞』の発行は昭和45年2月20日、昭和40年代の半ばの発行だ。「やはり何かおかしい」と、私はそう感じた。
 そこで、まずは同書の「はじめ」はどうなっているかを見てみようと思って頁を捲ってみたがない。さりとて、「序」とかもない。一般に単行本の場合には必ず「はじめ」やそれに相当するものがあるものとばかり思っていた私は、ないこともあるのだと訝しく思いながら、それじゃ止むを得ぬ「あとがき」だ。そう思って捲ってみたならばこちらの方はあった。ただしあるにはあったのだが、その「あとがき」を著しているのは関登久也ではなくてM氏だった。これも変なことだと思いつつその「あとがき」を読み進めた。その中には以下のようなことが書かれていた。
  あとがき
M  
 …(略)…関登久也が、生前に、賢治について、三冊の主な著作をのこした。『宮沢賢治素描』と『続宮沢賢治素描』、そして『宮沢賢治物語』である。…(略)…
 さて、直接この本についてのことを書こう。
 『宮沢賢治素描』正・続の二冊は、聞きがきと口述筆記が主なものとなっていた。そのため重複するものがあったので、これを整理、配列を変えた。明らかな二、三の重要なあやまりは、これを正した。こんにち時点では、調べて正すことのできがたいもの、いまは不明に埋もれたものは、これは削った。…(略)…賢治を神格化した表現は、二、三のこしておおかたこれを削った。その二、三は、「詩の神様」とか「同僚が賢治を神様と呼んだ」とかいう形容詞で、これを削っても具体的な記述をそこなわないものである。
 なお以上のような諸点の改稿は、すべて私の独断によって行ったものではなく、賢治令弟の清六氏との数回の懇談を得て、両人の考えが一致したことを付記する。願わくは、多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい。
 …(略)…この本はかたい研究書とはちがうが、賢治研究の根本資料としての真価に、さらにうるわしい花をそえているということができよう。
 昭和四十四年九月二十一日
       <『賢治随聞』(関登久也著、角川書店)277p~より>
というものである。
 私は一読して後味の悪さを覚えた。そして思ったことは三つあり、その第一は、
 『宮沢賢治素描』正・続の二冊は、聞きがきと口述筆記が主なものとなっていた。…(略)…これを削っても具体的な記述をそこなわないものである。
の部分に関してであり、他人の著書をこのような理由だけで改稿して新たに出版することがはたして許されるのだろうかということである。一体M氏はだれの許可を得てこのようなことをしたのだろうか。この時点ではもう既に関登久也本人のみならず関夫人のナヲも鬼籍に入っているからご遺族のどなたかには了解を得たのではあろうが、この点についてもM氏は全く触れていない。
 その第二は、
 なお以上のような諸点の改稿は、すべて私の独断によって行ったものではなく、…(略)…願わくは、多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい。
の部分についてである。M氏の独断ではないとは言っても、他人の著作を宮澤清六と懇談した上で二人の考えが一致したから改稿するということがはたして許されるのだろうか。まして、他人の著書をいわば換骨奪胎しておきながら、その原本を引例することは避けて自分等が改稿した方の著作を読めと推奨するということは、物書きを生業とする者に悖る行為なのではなかろうか。
 そして第三は、注意深くこの「あとがき」を読んで気付くのだが、最初の方では、
 関登久也が、生前に、賢治について、三冊の主な著作をのこした。『宮沢賢治素描』と『続宮沢賢治素描』、そして『宮沢賢治物語』である。
と言っておきながら、この最後の『宮澤賢治物語』についてだけはその後に言及がないことにである。これらの三冊は共通する部分がすこぶる多いのに、なぜこの『宮澤賢治物語』と『賢治随聞』の関連を一言も述べなかったのだろうか。まるで、『宮澤賢治物語』は無視されたかの如き印象を受けてしまう。以上の三つは私にとっては不可解なことであり、これらのことが後味の悪さを覚えた理由かなと思った。
 ただしほっとしたこともあった。それは、この「あとがき」から私としては新たに分かった次のことである。
 それはこの本のタイトル『賢治随聞』は少なくとも関登久也自身が名付けたもでのはなかったということである。思いの外、関登久也は賢治を神格化しようとすることは避けねばならぬと思っていたようで、そうならないようにと常に彼は自制していた人だと私は認識していたので、このようなタイトル『賢治随聞』はつい『正法眼蔵随聞記』を連想したくなるようなタイトルだから関登久也が付けるはずがないと私は以前から不審に思っていたのだが、たしかにそうだったのだと私は安堵した。
 逆に、このタイトルを付けた人の方が賢治を神格化してしまった一人ということになるのではなかろうかと私は思ってしまった。さてはて、この『賢治随聞』という本のタイトルは、関登久也以外の一体誰が付けたタイトルなのだろうか。

 何を「削った」のか
 そこで、『宮沢賢治素描』(関登久也著、眞日本社)及び『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)と『賢治随聞』(関登久也著、角川書店)の中身とを比べてみた。M氏のかたるところの改稿理由を確認するためにである。
 ざっと通読してみた限りにおいては、「削った」ものは、
『宮澤賢治素描』においては
・饗應
・知己
・報恩寺
・寒修業
・掲示板
・禮拝
・絶筆
・祖父への歌
・幼兒
・地質調査
・心理憶測
・祭禮
・利他
・霊
・立腹
・靈
である。
『續 宮澤賢治素描』においては
・没書
・菓子製造
が「削った」ものである。
 例えば、前者から削られた「靈」は次のような内容であり、
 賢治は人一倍優秀な頭脳と且つ鋭い神経と直感力を持つてゐました。凡人の眼には見えない、空間にうようよゐる悪靈善靈をしばしば肉眼にはつきりと見ることのできる人でありました。…(略)…さういふ常人には見ることの出來ない様々な靈界のものを賢治はあきらかに見聞きしてゐるのです。その羅須地人協會時代にもさういふものを見てをります。夜中賢治がただ一人居るその家から、身顫ひするやうな賢治の叫びを近くの家の人が聞いて居りますが、後で聞くと白装束の男が布團の上に重石のやうに乗ツかつたとか、枕上に髪を振り亂した女の形相物凄いのが立つたとか、しばしばさういふことがあつたやうであります。
       <『宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)183p~より>
 同じく、後者から削られた「没書」は次のようなものである。
 農林を終へ、土質の調査なども完了して、ひとまず自宅に落ついた頃は、賢治の讀書創作に没頭した靑年時代であります。やはりその頃童話や童謡の雑誌に「金の星」といふのが東京からでて居りました。賢治はその「金の星」に投稿してゐた様子だつたと、その當時、店に手傳つてゐた一少年がこの間話して居りました。その投稿が何べんも没書になるので賢治は「今度はいいだらう。今度はいいだらう。」と屡々投稿し、一二度は掲載されたこともあつたやうだと申してゐました。掲載された時の賢治は例のあの柔和な面持ちに滿面の喜びを湛へ、大變喜んでゐたと申します。
       <『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)115pより>
 前者は賢治の意外な一面であるし、後者はあまり知られていないエピソードだと思うのでともに削ってほしくないところである。それとも、これらがM氏が言うところの「こんにち時点では、調べて正すことのできがたいもの、いまは不明に埋もれたものは」だったのだろうか。私からすればそうとも言い切れないと思われるのだが。

 改稿の必要性ありや
 さて、M氏は「改稿」の理由と仕方を、
 『宮沢賢治素描』正・続の二冊は、聞きがきと口述筆記が主なものとなっていた。そのため重複するものがあったので、これを整理、配列を変えた。明らかな二、三の重要なあやまりは、これを正した。こんにち時点では、調べて正すことのできがたいもの、いまは不明に埋もれたものは、これは削った。…(中略)…仮名を使った数人の人名は、本名にもどした。たとえば大本教の出口王仁三郎や、昭和十年の座談会出席者三名のK・C・Mなどである。また、賢治を神格化した表現は、二、三のこしておおかたこれを削った。その二、三は、「詩の神様」とか「同僚が賢治を神様と呼んだ」とかいう形容詞で、これを削っても具体的な記述をそこなわないものである。
と述べている訳だが、私が通読して比べてみた結果は以下のとおりである。
○「重複」について
 確かに、『宮澤賢治素描』と『續 宮澤賢治素描』には重複する箇所はいくつかあったが、それはもともと始めから二冊構成になっているものだから、それほど違和感はなかった。
 そもそも、M氏は『宮澤賢治素描』正・続を一冊にして出版したかったということだが、そのことは既に関登久也自身が以前に行っている(その結果が、昭和32年に出版された『宮澤賢治物語』である)のだから、わざわざ新たに他人がそれらを改稿して『賢治随聞』として出版するということは道理に合わない行為である。
○「整理、配列」について
 『賢治随聞』においては大部組み替えが行われているが、それほど組み替える必要性も正直なかろうと思えた。
○「明らかな二、三の重要なあやまり」について
 これについてはその箇所を見つけることができず、結局何のことか分からずじまいであった。
○「こんにち時点では…これは削った」について
 たしかに前掲のようにいくつか削られたものがある。しかし、例えばその中の「立腹」は既に『イーハトーヴォ創刊號』4p(宮澤賢治の會、昭和14年)に高橋慶吾自身が載せているものであり、このような理由には該当しないような気もするので削った理由がいま一つ分からない。また、湯口村の遊坐俊次郎の証言「饗應」「知己」はなかなかいい話なのでこれも同様である。
○「仮名」について
 折角、関登久也が当事者に配慮して仮名にしたのであろう「邪教」や「法論」等があったが、それらは『賢治随聞』では本名になっている。ここは、当事者のことを配慮した関登久也の対処の方がベターでだったのではなかろうか。
 一方、例の座談会の出席者三名のK・C・Mについてだが、M氏が本名に戻したと言っている訳だから、M氏は当初からこの三名が誰であったかを知っていたということをいみじくも私達に教えてくれていることになる。これは注目に値することであり、今後覚えておかねばならぬことである。
○「賢治を神格化した表現」について
 M氏は「二、三をのこしておおかた削った」と言っているが、『賢治随聞』にはなくて『宮澤賢治素描』や『續 宮澤賢治素描』にあったそのような関登久也自身の記述部分は見つからなかった(私が見落としてしまったのだろうか)。
 一方の、「二、三をのこし」とM氏がかたっているような箇所だが、私がざっと『賢治随聞』を通読して気付いた部分だけでも
65p:遊坐さんは、「宮沢先生は特別だ、あの人は神様なんだからどうにもしようがあるまい」と言って遊坐さんも賢治へご馳走することはあきらめているようでした。
73p:小原さんはその高等農林を卒業し、いま福島県の方へ赴任しておられますが、宮沢賢治を神のごとくに尊崇し、何年か前には…
77p:そのときのことを回顧して兄の倉蔵さんが「宮沢先生は神様みたいな人だったから、酒も飲まないだろうと思っていたのに、その日は酒も飲んだし、煙草も吸ったし…」
87p:私の実母などは賢さんといえば人間ではなく、神仏に近い人だと信じていたくらいで…
の計4箇所あった。案外「のこし」ている。なお、これらの「神格化した表現」はあくまでも取材された側のものである。関登久也自身の行った神格化表現ではない。
以上

 こうして調べてみると、『賢治随聞』の「あとがき」でM氏が挙げている改稿理由に、その「改稿」の実態が沿っていないと私には見える。だから、何もわざわざM氏が他人の著書『宮澤賢治素描』正・続を一冊にして改稿・出版する必要性などなかったのではなかろうかとやはり思えた。
 したがって、遺族でもないM氏がこの時期に『賢治随聞』をわざわざ出版したことは不可思議なことであるし、理に適わないことなのだから、
   ◇改稿の必要性は全くなく、『賢治随聞』の出版はかなり奇妙である。
としか私には思えない。それゆえに他人事ながら、M氏のこのような改稿は僭越な行為であると周りから非難されたりしたことはなかったのだろうかと私はついつい心配してしまう。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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