『啄木 賢治 光太郎』を読んでいたならば荒木田 家寿なる人物に出くわした。そこには次のようなことが記されていた。
ということは、やはり、昭和3年の陸軍特別大演習を前にして思想的な取締りがかなり厳しく行われたということになりそうだ。直衛は思想的にそれほどではなかったのにも関わらず盛岡中学の教員の身を奪われたということのようだから。
そして、昭和3年の10月に行われたこの大演習を前にして「県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた」というのはやはり本当のことだったようだ。このような直衛なのに盛岡中学の職を追われた訳だし、花巻では、下根子桜に出入りしていた八重樫賢師が北海道に追放になったのもこの時だったのだから。
ところで、あの秋田出身の小牧近江が創刊した『種蒔く人々』を初めて盛岡に持ち込んだというこの直衛とは荒木田の兄なのだそうだ。
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金田一兄弟の末弟、荒木田家寿は「『種蒔く人』を初めて持ち込んだのが、この直衛なんです。思想的には特にアカというのではなかったが、昭和三年、陸軍演習を前にして〝アカ狩り〟で盛中をクビになってしまった」という。
<『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)37pより>ということは、やはり、昭和3年の陸軍特別大演習を前にして思想的な取締りがかなり厳しく行われたということになりそうだ。直衛は思想的にそれほどではなかったのにも関わらず盛岡中学の教員の身を奪われたということのようだから。
そして、昭和3年の10月に行われたこの大演習を前にして「県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた」というのはやはり本当のことだったようだ。このような直衛なのに盛岡中学の職を追われた訳だし、花巻では、下根子桜に出入りしていた八重樫賢師が北海道に追放になったのもこの時だったのだから。
ところで、あの秋田出身の小牧近江が創刊した『種蒔く人々』を初めて盛岡に持ち込んだというこの直衛とは荒木田の兄なのだそうだ。
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