みちのくの山野草

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3124 平井 直衛

2013-03-02 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
 さてその「直衛」だが、同書は次のように紹介している。
 「独語」を書いた平井直衛は、明治二十六年盛岡生まれ。金田一京助を長男とした十一人兄弟の四男で、東京帝大でホイットマンを研究し、当時は盛中の英語教師。大正デモクラシーを教養にしたリベラリストで生徒の人望があつかったという。
               <『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)37pより>
 つまり、金田一京助、平井直衛、荒木田家寿の三人はなんと兄弟であったのだった。そして、この平井直衛は昭和3年10月に行われた陸軍特別大演習を前にして、「アカ」という理由で盛岡中学から追われたということになる。それも、弟家寿が言うところから推測すればその理由はせいぜい例の『種蒔く人』を初めて盛岡に持ち込んだ程度の理由であろうことが窺える。
 このことに関してはブログ
   『どっこ舎へようこそ!郷土の誇りを伝えよう!夢結ぼう!
の中の、
   『平井直衛
の中の〝4、盛岡中学校の教師を追われる〟で次のように紹介されている。
 昭和3年秋には、盛岡を中心に陸軍の大規模な特別大演習が行われ、お若い昭和天皇が盛岡中学校においでになり、授業を観閲なされた。こうした中にあって、盛岡中学校は警備も強化され、先生や生徒の動きにも厳しい目が向けられるようになった。後に直衛が亡くなった時、盛岡タイムスは2面トップに平井直衛先生の死を悼み、「社会主義の種をまく 赤の名で盛岡中学高を追われる」という見出しで当時のことを紹介している。直衛は昭和3年8月、退職して日詰にもどった。

 ということは、デモクラシーの大正から昭和に入ると世の中は右旋回して軍国思想が高まっていった、そのような社会情勢の下の岩手で行われた陸軍特別大演習を前にして、岩手では徹底した「アカ狩り」が行われて、
   盛岡中学の教師だった平井直衛は昭和3年8月にその職を追われた。
ということになりそうだ。何とその時期は
   昭和3年8月
だったのである。
 実際『白堊同窓会名簿』を見れば、
   平井直衛 T12.3~S3.8 英語
となっている。
 たしかに、
 平井 直衛は昭和3年8月に 赤の名で盛岡中学高を追われた。
と言えそうだ。

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