佐藤隆房著『自叙伝 醫は心に存す』という本を読んでいたところ次のような記述があった。
たしかに、佐藤隆房著『宮澤賢治』の発行は昭和17年9月8日となっているものがある。すると、少なくとも飛田三郎は昭和15~17年の間、佐藤隆房のアシスタントをして働いていて、この頃はまだ岩手に居たということになってしまう。
一方、以前《飛田三郎の略年譜》を作ってみたが、その際飛田三郎は
昭和14年 台湾へ。7年間行っていた。
昭和21年 花巻に戻り、その後再び小学校の先生になった。
とした。すると、この年譜は訂正をしなければならないのだろうか。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_oro.gif)
取りあえず本日は大雑把な数値で概観してみる。
◇昭和17年:隆房52歳の時『宮沢賢治』出版
(佐藤隆房=明治23年10月15日生)
◇息子の進氏曰く
進氏:父38歳の時に生まれた
隆房38歳=昭和3年……①
進氏6歳(小学入学前後)=昭和9年前後飛田さんという書生がつく。
進氏中学2年生=1213歳頃『宮沢賢治』出版
<『宮沢賢治―素顔のわが友―』(佐藤隆房著、桜地人館)の後記より>
すると、佐藤進氏が中学2年生というのはおおよそ昭和3+1213年=昭和1516年頃となるから、進氏の証言に従えば
昭和1516年頃に『宮沢賢治』出版
したことになる。
大雑把な計算ゆえだろうかちょっと誤差が大きい。うむ、大体合っている。
でも、なんかちょっとわからなくなってきたぞ………しばし時間をいただいて今後調べてみたい。
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その後『賢治の花園』(佐藤進著)をたまたま見たところ著者の略歴が載っており、
昭和3年7月29日岩手県生まれ。
となっていたので、〝①〟は予想通りであった。
また、同書の〝父の冨山版『宮沢賢治』〟には次のようなこと
を述べていて、こちらでもその書生さんの名前はフルネームで飛田三郎と著していた。
また、同書には出版の担当者市村宏氏の
ということは、飛田三郎が台湾に行ったのは早くとも昭和16年11月頃ということになるのだろうか。
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昭和十五、六年頃はややおとろえたので、宮沢賢治の伝記を執筆しようと考えた。宮沢賢治の伝記は、賢治が他国に滞留したことがない関係で、花巻人が書かなければ書く人がいないと思ったからである。自分は腰痛で動きがとれないので、飛田三郎君というのに頼んで賢治に接触したあらゆる人々から当時の情報をあつめてもらって、この情報を年代によって整理し、これを基にして、飛田君に口述した。毎日毎日口述がつづいた。出来たのは昭和十七年、冨山房から初版として出版された宮沢賢治である。
<佐藤隆房著『自叙伝 醫は心に存す』111pより>たしかに、佐藤隆房著『宮澤賢治』の発行は昭和17年9月8日となっているものがある。すると、少なくとも飛田三郎は昭和15~17年の間、佐藤隆房のアシスタントをして働いていて、この頃はまだ岩手に居たということになってしまう。
一方、以前《飛田三郎の略年譜》を作ってみたが、その際飛田三郎は
昭和14年 台湾へ。7年間行っていた。
昭和21年 花巻に戻り、その後再び小学校の先生になった。
とした。すると、この年譜は訂正をしなければならないのだろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_oro.gif)
取りあえず本日は大雑把な数値で概観してみる。
◇昭和17年:隆房52歳の時『宮沢賢治』出版
(佐藤隆房=明治23年10月15日生)
◇息子の進氏曰く
進氏:父38歳の時に生まれた
隆房38歳=昭和3年……①
進氏6歳(小学入学前後)=昭和9年前後飛田さんという書生がつく。
進氏中学2年生=
<『宮沢賢治―素顔のわが友―』(佐藤隆房著、桜地人館)の後記より>
すると、佐藤進氏が中学2年生というのはおおよそ昭和3+
昭和
したことになる。
でも、なんかちょっとわからなくなってきたぞ………しばし時間をいただいて今後調べてみたい。
********************************************
その後『賢治の花園』(佐藤進著)をたまたま見たところ著者の略歴が載っており、
昭和3年7月29日岩手県生まれ。
となっていたので、〝①〟は予想通りであった。
また、同書の〝父の冨山版『宮沢賢治』〟には次のようなこと
私は幼少の頃、病弱でしたので、運動させるために書生さんを付けてくれました。飛田三郎さんという方でした。父はその方に口述して原稿を書かせておりました。それが昭和十七年九月に東京の冨山房から出版された『宮沢賢治』です。
<『賢治の花園』(佐藤進著、地方公論社)90pより>を述べていて、こちらでもその書生さんの名前はフルネームで飛田三郎と著していた。
また、同書には出版の担当者市村宏氏の
佐藤隆房博士のものとされた本書の草稿をたずさえて、当時冨山房をあずかっていた私を訪問されたのは加茂儀一氏であった。十六年十一月某日のことで、大戦勃発の数日前だったろう。
という証言も載っていた。ということは、飛田三郎が台湾に行ったのは早くとも昭和16年11月頃ということになるのだろうか。
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