《創られた賢治から愛すべき賢治に》
赤坂憲雄氏と吉田コト氏の対談は続く。『宮澤賢治名作選』出版の経緯
赤坂氏(当時東北芸術工科大学大学院長)の質問に対して、
赤坂 賢治の名前を世に知らしめたことになる『宮澤賢治名作選』の出版に至る経緯はどうだったの。
吉田 あれは初めて花巻に行ったときのことじゃなかったかな。甚次郎さんとしまちゃんと私、みんなで宮沢家でごちそうになったんですよ。お酒も出たりしてね。そうこうしているうちに政次郎さんが「賢治が書いたもの、いっぱいあるのに、だれも認めてくれねくてよ」って言う。それも二回も三回も同じこというの。甚次郎あんがどれくらい原稿があるのかって尋ねたら、政次郎さんが「行李さいっぱいあるー」って言うのね。そしたら甚次郎さんが「いやー、ほだい原稿がいっぱいあるんだら、賢治先生の本、何か一冊くらい作んべー」って。政次郎さん「ほだなことしてけたら、賢治はなんぼよろこぶか」ってホントに涙を流さんばかりだったっけ。いや、泣いていたかもしれない。私、泣きそうな政次郎さんの顔を見ていられなくて……。賢治の弟の清六さんもそこにいたのね。清六さんも「んだかー」なんて言ってた。これがきっかけ。
<『月夜の蓄音機』(吉田コト、荒蝦夷)15p~より>吉田 あれは初めて花巻に行ったときのことじゃなかったかな。甚次郎さんとしまちゃんと私、みんなで宮沢家でごちそうになったんですよ。お酒も出たりしてね。そうこうしているうちに政次郎さんが「賢治が書いたもの、いっぱいあるのに、だれも認めてくれねくてよ」って言う。それも二回も三回も同じこというの。甚次郎あんがどれくらい原稿があるのかって尋ねたら、政次郎さんが「行李さいっぱいあるー」って言うのね。そしたら甚次郎さんが「いやー、ほだい原稿がいっぱいあるんだら、賢治先生の本、何か一冊くらい作んべー」って。政次郎さん「ほだなことしてけたら、賢治はなんぼよろこぶか」ってホントに涙を流さんばかりだったっけ。いや、泣いていたかもしれない。私、泣きそうな政次郎さんの顔を見ていられなくて……。賢治の弟の清六さんもそこにいたのね。清六さんも「んだかー」なんて言ってた。これがきっかけ。
と吉田コト氏は答えている。
たしかに、この『宮澤賢治名作選』の出版準備は案外早時期から取りかかったと思われる。なぜならば、『土に叫ぶ』が出版されたのが昭和13年5月23日、そして『宮澤賢治名作選』が出版されたのが、翌昭和14年の3月7日だからである。コト氏の言うとおり、「初めて花巻に行ったときのことじゃなかったかな」であったということは十分に頷けることである。
ということで『賢治名作選』出版の運びになったのだそうだが、この当時の甚次郎は講演に出掛けたりしなければならなかったから多忙であったためになかなか花巻に行けなかったので、甚次郎から助けてくれないかと頼まれたコト氏が甚次郎に代わって花巻に足繁く通うことになったということも、上掲書には述べられている。
松田甚次郎の賢治受容における貢献
そして、赤坂氏がいみじくも『賢治の名前を世に知らしめたことになる『宮澤賢治名作選』』と語っている松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』であるが、その松田甚次郎の「全国的な賢治受容」のために対して果たした貢献、そして著名な賢治研究家に与えた影響等は頗る大であったと私も思っているのだが、そのことは昨今殆ど忘れ去られてしまっているのが現実であるということも一方で私は感じている。
前掲書には、その辺りに関連して次のようなやりとりも続いて載っている。
赤坂 松田甚次郎の名前が編者となっているのも、その関係があったからですな。
吉田 だって、宮沢賢治なんてたって、誰も知らないのよ。そんな本が売れるわけがないでしょう。これもねえ、最初だったか、あとで花巻に行ったときだったか、政次郎さんと清六さんと三人で「宮沢賢治なんてってもねー」って話になったのよ。それで私が「甚次郎先生の名前使えばいいべずー」って言ったような気がするの。だって甚次郎さんは『土に叫ぶ』のベストセラー作家だもん。んで、甚次郎さんに名前使いたいって電話したんだ。そしたら「あー、いいよ」って。羽田さん(出版元の羽田出版社のこと:投稿者註)としても賢治で売ろうとしたんじゃなくて、甚次郎さんの名前で売ろうとしたんですよ。
赤坂 これがまたよく売れた。
吉田 売れましたよ、ホント。『土に叫ぶ』のときは農林大臣の推薦で売れた。今度は羽田代議士がだいぶ売ってくれた。いろんな影響力を使ってくれたんでしょう。印刷だなんだって、お金はみんな宮沢家が出したんだろうから、羽田書店にとってはまったくうまくいった。『土に叫ぶ』もあったから、羽田さんは甚次郎さんと賢治にずいぶん儲けさせてもらったことになるわね。
<『月夜の蓄音機』(吉田コト、荒蝦夷)20p~より>吉田 だって、宮沢賢治なんてたって、誰も知らないのよ。そんな本が売れるわけがないでしょう。これもねえ、最初だったか、あとで花巻に行ったときだったか、政次郎さんと清六さんと三人で「宮沢賢治なんてってもねー」って話になったのよ。それで私が「甚次郎先生の名前使えばいいべずー」って言ったような気がするの。だって甚次郎さんは『土に叫ぶ』のベストセラー作家だもん。んで、甚次郎さんに名前使いたいって電話したんだ。そしたら「あー、いいよ」って。羽田さん(出版元の羽田出版社のこと:投稿者註)としても賢治で売ろうとしたんじゃなくて、甚次郎さんの名前で売ろうとしたんですよ。
赤坂 これがまたよく売れた。
吉田 売れましたよ、ホント。『土に叫ぶ』のときは農林大臣の推薦で売れた。今度は羽田代議士がだいぶ売ってくれた。いろんな影響力を使ってくれたんでしょう。印刷だなんだって、お金はみんな宮沢家が出したんだろうから、羽田書店にとってはまったくうまくいった。『土に叫ぶ』もあったから、羽田さんは甚次郎さんと賢治にずいぶん儲けさせてもらったことになるわね。
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『賢治が一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』
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