《創られた賢治から愛すべき賢治に》
当時の賢治の地元での評価さて、吉田コト氏は前掲書において続けて次のように答えている。
赤坂 そのころの花巻の人たちにとって、賢治はどんな存在だったんだろう。
吉田 花巻でお世話になった家があったのね。そこのうちの人に「あんたがた、ケンジだとかって騒いでいるけど、ケンジってなんだ」って尋ねられたことがある。私が「すごく偉い人なんだぞ、日本一だぞ」って言ったら「んだかー」なんて、そんなものよ。宮沢家のことは知っているのよ。花巻では有名なお金持ちだもの。だから、宮沢家の一員としての賢治も知っている。けれども、今みたいに賢治が大作家だなんてことなかったんだから。誰かもっと賢治について語ってくれる人がいないかと探しても「んだなー。もっぱらほだな話だなー」なんて、あまり賢治のことなんか気にかけていないの。
赤坂 宮沢家にも泊まりましたか。
吉田 うん、泊まった。政次郎さんがいるうちはホントに楽しみだった。政次郎さんは私のこと、うんとかわいがってくれたの。何か高利貸ししていたから評判がよくなかったって話だけど、私たちには本当によくしてくれた。…(略)…
<『月夜の蓄音機』(吉田コト、荒蝦夷)14p~より>吉田 花巻でお世話になった家があったのね。そこのうちの人に「あんたがた、ケンジだとかって騒いでいるけど、ケンジってなんだ」って尋ねられたことがある。私が「すごく偉い人なんだぞ、日本一だぞ」って言ったら「んだかー」なんて、そんなものよ。宮沢家のことは知っているのよ。花巻では有名なお金持ちだもの。だから、宮沢家の一員としての賢治も知っている。けれども、今みたいに賢治が大作家だなんてことなかったんだから。誰かもっと賢治について語ってくれる人がいないかと探しても「んだなー。もっぱらほだな話だなー」なんて、あまり賢治のことなんか気にかけていないの。
赤坂 宮沢家にも泊まりましたか。
吉田 うん、泊まった。政次郎さんがいるうちはホントに楽しみだった。政次郎さんは私のこと、うんとかわいがってくれたの。何か高利貸ししていたから評判がよくなかったって話だけど、私たちには本当によくしてくれた。…(略)…
この頃既に文圃堂版『宮澤賢治全集 全三巻』(昭和9年10月~昭和10年9月)は出版されていたのだがそれほどの発行部数があったわけでもなく、松田甚次郎や吉田コト氏らが花巻を訪れた昭和13年頃にはまだ賢治は全国的には全く、地元でさえもほとんど知られていなかったということをこのコト氏の証言は物語っているということになるのだろう。
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『賢治が一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』
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