みちのくの山野草

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帰花26日の可能性

2015-08-11 09:00:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 ところで、この時の上京に関わる旅程に関しては、前回取り上げた『MEMO FLORA手帳』104pのメモ

 16 図、浮、[築、→P]
 17 築
 18 新、
 19 新、
 20 市、
 21 図、浮、本、明、
 22 ―甲府
 23 ―長野
 24 ―新潟
 25 ―山形
            <『校本 宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)より>
があるし、もう一つ似たような旅程メモがあり、それは文語詩未定稿〝〔島わにあわき潮騒を〕下書稿メモ〟に
 十四日  帰京
 十五日  図書館 浮展 新橋
 十六日  図書館 浮展 築地
 十七日  図書館
 十八日  図書館
 十九日  農商ム省
 二十日  農商ム省
 二十一日 図書館 浮展
 二十二日 甲府
 二十三日 長野
 二十四日 新潟
 二十五日 山形
            <『校本 宮澤賢治全集第五巻』(筑摩書房)より>
とあるということも以前から知っていたので、これらの二つはほぼ同じ様な内容だから、少なくとも6月25日までの賢治はかなりの確率で花巻にはまだ戻っていなかったということも考えられると思っていた。
 そしてやはりその蓋然性が高いであろうあろうということをこの度改めて認識した。それは、土岐氏のこの論文を拝見して、
    (前掲の)文語詩は昭和八年の書かれている
ということを知ったからだ。つまり、賢治が昭和3年「伊豆大島行」を含む上京をした後の、5年後の昭和8年になってこの様なメモを残していたということは、そのメモどおりの旅をしたと考えるのが普通だろうからだ。しかも、その滞京時に賢治が妹クニに宛てた書簡
  238 〔昭和三年六月十六日〕宮沢クニあて 葉書
お手紙ありがたう
大島も計画通り済んでいままた東京に帰ってゐます。二十三日から出て二十六日の午后までに家にかへります。
みなさんによろしく。
              <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)より>
もそのことを裏付けてもいる。だから、
    この時、帰花したのは26日であったという可能性が低くない。
ということになる。つまり、実は賢治は6月23日に東京を発ち、22日は甲府へ、23日は長野へ、24日には新潟へ、25日には山形に行き、そして帰花したのは当初の予定どおり6月26日であった、ということもあながち否定できないようだ。そしてそれが真実であったとすれば、いよいよもってこの時の出京は「逃避行」であったという真実味がいよいよ確実になってしまいそうだ。それはこの農繁期にそこまで回らねばならなかったという理由や必然性が私には探し出せないからだ。言い方を換えれば、それ以外の理由があったからだとなってしまうからだ。  

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