みちのくの山野草

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農本主義者 加藤完治

2020-11-05 12:00:00 | 甚次郎と賢治
《加藤完治(『写真集 満蒙開拓青少年義勇軍』(全国拓友協議会編、家の光協会)より)》

 さて、以前に一度引いたものだが、南雲道雄氏の次のような松田甚次郎評がある。
 宮澤賢治を師と仰ぎ、その精神主義的な面を受けついだ活動的な知識青年の悲劇のごときものを右の趣意書にみることができるが、運動開始当初は警察にマークされ、刑事の尾行までついたこの啓蒙運動を、数年後には一挙に「強烈なる皇国精神の発動」まで急旋回させたのは何か。それは松田の農本主義精神が、天皇崇拝に直接結びつくものを最初からはらんでいたけれども、直接的には彼の運動と実践力を利用しようとし、「高松家」より出された「有栖川宮記念更生資金」という餌であった。
             〈『現代文学の底流――日本農民文学入門』(南雲道雄著、オリジン出版センター)同113p〉
 かくの如く、松田甚次郎には「農本主義」というレッテルが貼られがちだが、ここまで3冊の追悼集(『追悼 義農松田甚次郎先生』、『寂光「素直な土」』、『和光 追悼の詩』)等を読んでみて、どうもそこまでされるような人物ではないのではなかろうか、ということを私は確信しつつある。それは、あの農本主義者 加藤完治や橘孝三郎に較べたならばそれほど問題にされるべき点はないと思うからでもある。そこで今回からは、この二人について少しく述べてみたい。ではまずは、加藤完治についてである。

 昭和2年、松田甚次郎は盛岡から新庄鳥越に戻り、賢治の「訓え」にしたがって小作人となり、「鳥越倶楽部」を発足させて農村劇『水涸れ』を上演したのだが、その翌年の昭和3年、甚次郎はその活動を休止して茨城県友部の日本国民高等学校
【日本国民高等学校】

     <『写真集 満蒙開拓青少年義勇軍』(全国拓友協議会編、家の光協会)より)>
に入学してそこで1年間を過ごしたという。この日本国民高等学校の校長が加藤完治であった。そしてこの1年間は、甚次郎のその後の実践に極めて大きな影響を与ているといわれている。
 もちろん、この加藤完治はあの満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所の所長でもあった。
【 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所】

     <『写真集 満蒙開拓青少年義勇軍』(全国拓友協議会編、家の光協会)より)>
 この訓練所で加藤の薫陶?を受け、加藤の訓辞で送り出された15歳~19歳の青少年は「第二の屯田兵」とか「昭和の白虎隊」と褒めそやされ、「片手に鍬、片手に銃」を合い言葉に満蒙で大地主になることを夢みて渡満したのだがその夢はあえなく破れ、彼の地で味わったのは言葉では言い表せないほどの辛酸であったようだ。
 ちなみに、上 笙一郎は『満蒙開拓青少年義勇軍』(中公新書)の中の「3 戦後の加藤完治」でおおよそ次のようなことを述べている。
 加藤によって満蒙に送り出された計86,530名の青少年義勇軍の内の約24,200名(約28%)が満州の荒野や収容所で悲惨極まる最期をとげ、幸い後に帰国できた約62,300名も言語に絶する辛酸を嘗めていたときに、彼らを<鍬の戦士>の美名のもとに送り出した加藤完治は一体どうしていたのであろうか。多くの青少年をそのような運命に追いこんだことについてどれほど深く反省し、いかにその責任を取ろうとしたか。
と。

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