みちのくの山野草

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「国策に沿いながら」再考

2020-11-03 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『近代山形の民衆と文学』(大滝十二太郎著、未来社)〉

 さて、次の一文は以前一度引いたものだが、「松田甚次郎の追悼文集を読む」の中で、
 確かに甚次郎は、晩年になればなるほど、戦争にのめり込んでいく国策に沿いながら村を救うことを夢みた。とすれば、ひとたびその国策が破産すれば、彼のドラマの世界も同時に破産するということになる。これは、ひとり甚次郎だけが遭遇した問題ではない。
             〈『近代山形の民衆と文学』339p〉
ということも大滝氏は述べていた。そこで私は、
 果たして「国策に沿いながら」と、ましてそれを「……夢みた」とまで言い切れるのかという疑問はあるものの、少なくとも「ひとり甚次郎だけが遭遇した問題ではない」という断定はまさにそのとおりだと肯んずる。つまり、ひとり甚次郎だけが「時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した」と誹られる理由はない、ということをさらに確信した。
というように、疑問と確信を述べたのだった。
 そしてやっと、松田甚次郎の三冊の追悼集を読み終えることができたので、このことに関して改めて考え直してみたのだが、その結論は、「国策が松田甚次郎を利用した」とは言えても、その逆の松田甚次郎は「国策に沿いながら」とまではやはり言えないのではなかろうか、というものだ。その証左の一つが、まさに松田法光が、「太平洋戦争を前にした疲弊し切った農村と農民に対して本当に自分を捨て切って燃焼し尽くした」甚次郞と言っているからだ。おのずから、甚次郞がそれを「……夢みた」とまで言い切れるのかというと、そのような甚次郞でなかったと判断するのが合理的ではなかろうか。そしてそもそも、甚次郞がそれを「……夢みた」ということを裏付ける、証言や資料を私は相変わらず見つけられずにいるから、なおさらにである。
 それから、もう一つ大事なことがある。それは、「ひとり甚次郎だけが遭遇した問題ではない」ということに関してだ。ただしこのことに関しては次回へ。

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