みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

光太郎と賢治との面会はただ一度

2024-01-12 12:00:00 | 独居自炊の光太郎
〈「雪白く積めり」の詩碑》(平成22年7月29日撮影)

 かなり以前のことだが、私は〝3289 高村光太郎宅訪問〟という投稿をしたことがあった。そして、その際に、
 したがって、はたして賢治が光太郎と相まみえたか否かは悩むところだ。とはいえ、これらの二つの証言がある以上、少なくともかつて巷間伝わっていた次のような「事実(手塚武の記憶)」はまずあり得ないであろう。
 …夕方になり、一緒にめしを喰おうと高村光太郎がさそいだし、三人は林町の家を出て坂を下り、池の端から上野駅近くまで歩き、当時まだ小さかった聚楽の二階の一部屋でいっぱいやりながら鍋をつついた。
             〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜編』(筑摩書房)330p〉
 そしてまた改めて悟った。あたかも実況中継をしているかのようなかくの如き文章に限って、それは事実からかえって遠いものである傾向があるということを、である。
という判断を私はしたのだが、この度、佐藤隆房著『高村光太郎山居七年』を読んで、この新校本年譜の記載はやはり心もとないと改めて私は思い知らされたからだ。
 では、そこにはどんなことが書かれていたかというと、佐藤隆房が高村光太郎に「賢治さんについてお伺いします」と言って切り出したならば、光太郎は、
「賢治さんにはただ一ぺん玄関で立話をしただけで、そのあともう一度訪ねてくるような話だったけど、とうとう来なかったので、生前の面会はただ一度です。今になってみると残念ですな。」           〈『高村光太郎山居七年』(佐藤隆房著、筑摩書房)92p〉
と答えたということが、であった。

 そしてまた、先の〝3289 高村光太郎宅訪問〟において投稿したように、直接高村光太郎から聞いたという小倉豊文の次のような証言がある。
 ところで高村さんは生前の賢治と会っていない。賢治が訪問したのは確かだが、その時に高村さんは留守だったというのが事実だ。これは高村さんからきいたことだから間違いないであろう。              〈『宮澤賢治聲聞縁覚録』(小倉豊文著、文泉堂出版)129p〉
 まさか光太郎と賢治が実は顔を合わせていなかったとはゆめゆめ私は思っていなかったが、歴史家であるという矜恃を常に持っていると私は思っている小倉がかくの如く言っているのだからその信頼度は高かろうとも思ったのだった。
 同時に思い出すのが、佐藤勝治が「光太郎と賢治―ある冬の日の会見―」で明かしている光太郎の次のような証言である。
 宮沢さんは、写真で見る通りのあの外套を着ていられたから、冬だったでしょう。夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけていたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰って行かれました。…(投稿者略)…
 あの時、玄関口でちょっとお会ひしただけで、あと会えないでしまいました。また来られるといふので、心待ちに待つていたのですが…。口数のすくない方でしたが、意外な感がしたほど背が高く、がつしりしていて、とても元気でした。
            〈『みちのくサロン 創刊号 高村光太郎特集』(みちのく芸術社)41p~〉
 こちらの証言の方は、佐藤勝治が「光太郎から直接聞いて手帖に書き止(ママ)めておいたものである」と同書に書いてある。佐藤勝治といえば、昭和20年8月10日の花巻大空襲で焼け出されてしまった光太郎に太田村山口への転住を勧めるなどした人だということだから、この証言にも重いものがある。
 したがって、はたして賢治が光太郎と相まみえたか否かは悩むところだ。
 
 つまりどういうことかというと、この度の『高村光太郎山居七年』によって、新校本年譜における先の「事実(手塚武の記憶)」は限りなく事実から遠いであろうということが導かれた。
 言い換えれば、光太郎が面と向かったのは、
 賢治さんにはただ一ぺん玄関で立話をしただけで、そのあともう一度訪ねてくるような話だったけど、とうとう来なかったので、生前の面会はただ一度です。
と判断して間違いないということだ。

 続きへ
前へ 
「光太郎太田村山口で独居自炊」の目次へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。"
 
***********************************************************************************************************
☆『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))

 アマゾン等でもネット販売されております
 あるいは、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」 | トップ | 帰花後の賢治の無関心 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

独居自炊の光太郎」カテゴリの最新記事