《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》
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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
帰花後の賢治の無関心
さて、賢治は一ヶ月弱の滞京を終えて年末に帰花(花巻に帰ること)。明けて昭和2年1月からはよく知られているように、次のようにほぼ十日置きに羅須地人協会の講義等を本格的に始めたと云われている。
一月五日(水) 伊藤熊蔵、竹蔵来訪、中野新佐久往訪
一月七日(金) 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪
一月一〇日(月)〔講義案内〕による羅須地人協会講義が行われたと見られる。
一月二〇日(木) 羅須地人協会講義。参会者に「土壌要務一覧」のプリントを配布し、図解を示しつつ土壌学要綱を講じる。
一月三〇日(日) 羅須地人協会講義「植物生理学要綱」上部。午前一〇時より午後三時まで。伊藤清一より農事講話を依頼される。ことわり状(書簡225)
一月 「文語詩篇」ノートに「一月 嬰児遺棄」とあり
一月(日付不詳) 斎藤貞一に書簡(226)
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)>
一方『岩手日報』は、前年末に大正天皇が崩御したので新年になってもその関連の記事が紙面の殆どを占めていたのだが、1月8日以降になると再び旱魃被害関連の記事が紙面に載り始める。
◇昭和2年1月8日付『岩手日報』には、
農村經濟は全く破滅の苦境 米價の大崩落にて肥料購入も困難
という見出しの記事があり、旱害のみならず米価も大幅に下落しているという報道があり、農民は泣きっ面に蜂であった。
そして翌日になると、
◇1月9日付『岩手日報』夕刊の「一面」は、そのほぼ全面を使っての紫波地方の旱害被害に関する報道をしている。まずは、
未だかつてなかつた紫波地方旱害慘状
飢えに泣き寒さに慓ふ同胞
本社特派員調査の顚末發表
という見出しで始まり、
紫波地方昨夏の旱魃は古老の言にもいまだ聞かざる程度のものであった水田全く變じて荒野と化し農村の人たちはたゞ天を仰いで長大息するのみであった。したがって秋の収穫は、一物もなかった、なんといふ悲慘事であらう、飢に泣き寒さに慄へる幼き子どもらを思ふとき我れら言ふ言葉がない…(筆者略)…。
赤石村に劣らぬ不動村の慘めさ
灌漑は全く徒勞に終わって収穫は皆無
不動村は赤石村に劣らない慘害を受けたが鉄道が多少離れてゐる關係か比較的一般に知られてゐない、村役場の調査によると耕地反別五百三十一町歩中植つけ不能段別四十七町一反歩、植つけはしたが枯れて仕舞又は結實せず収穫が皆無のもの六十三町歩、七割減収が六十三町歩、五割減収が六十八町歩、三割減が三十四町歩、三割以下の減収が三十三町歩といふ數字をしめし耕地面積の半分に近い二百四十一町歩余は収穫皆無又は半作以下で地租免税の申請をなしたものが百八十六町歩に達した、ために収穫高もカン害を受けた昨年一萬三百六十石の半ばにたらぬ、四千五百石で純小作百十三戸、自作兼小作二百七十戸が生活せねばならないのであるから既に生活資金に窮するに至つたのである
水稻のみだけでなく畑作の麥、靑刈大豆等も三割以下減収の上揚水機の設備に多額の金を投じた、動力使用の揚水機を設備したのは十ヶ所で一ヶ所平均九百圓を要し九ヶ所は買ひ入れたものであるが内早くから設備した二ヶ所である他は焼けつく樣な炎天に雨を待ちドウにもならなくなつてから設備したため十ヶ所の揚水機で僅かに四町歩の灌漑をなしたに過ぎなかつた、手ぼりの井戸は百八十ヶ所で之も三十圓から五十圓の経費を要した之とて焼石にそゝぐ樣なものでカン害狀態視察の得能知事がソウして昼夜水をかけてなん反歩の灌漑が出來るかと聞いて涙ぐんだほどで灌漑水については惱み苦しんだ上結果から見れば何等の効果もなかつた揚水機設備に貴重な一萬餘圓をむなしく投じてしまつたのである。この揚水機もむなしく手をつかねて雨を待たずに設備をしたならば夫相當の効果はあつたのであらふも時機を失した為徒勞に歸したのみでなく更に疲弊困難に陥入るの因をなすに至つた
斯くして得たる米も玄米一駄(七斗)十五六圓でもつき減りが多く『砕け』のみになるといふので買ひ人がないといふ有り樣である、仝村に足を入れ小學校付近に行くとむなしく雪に埋づもれ朔風の吹きまくるに委せて居る水稻がある、幾つかの藁みよが並んで居るがこの藁みよには穂がついて居るが、聞くと刈つては見たが米はとれないから肥料にする外ないので積んで置くのだといふ、油汗をたらし血を流す樣な努力をかさねた結果肥料にする藁を得るに過ぎなかつた時農民の心中は如何なる思ひに滿たされたことであらう、
縣ではかん害救済資金として一萬五百圓を代用作物種子代と動力使用揚水機設備補助に支出することになつたが揚水機補助は兎も角代用作物種子代補助の如きは當村で馬糧にする靑大豆を僅かに五反歩植つけたにすぎなかつた、之は大豆、稗其他の代用作物を植つければ翌年の収穫に影響を及ぼすため縣でイクラ種子代を補助すると參事會に代決を求め決定しても植つけなかつたので此點は縣の見込み違ひで救濟方法としては當を得なかつたが通常縣會に要求の勸業奬勵費二萬圓の追加はかん害地の衣食に窮する農民に對しては本當に救濟の実を擧げることが出來るものである
という記事内容であった。
つい今までは赤石村の旱害被害が甚大だということにばかり目を奪われていたが、この記事を見て初めて不動村の未曾有の旱害被害、過酷さを知って愕然としてしまう。以前触れたように、赤石村の旱魃被害に対しては宮城県、はては東京の小学生からさえも義捐があったくらいだからこの時の赤石村の惨状は広く知られていたのだろうが、たしかに不動村のこの惨状は赤石村のそれとさほど差違はなく、単に報道されていなかっただけのことだったようだ。
また、同一面には
この冬をどうして暮らす 赤石と本村は同樣 菅原不動村長語る
という見出しのなどの記事もあり、
十三年と十四年は植つけ後のかん魃であつたから収穫は減る事は減ったが今度のようにヒドクはなかつた、今度は植つけないうちからかん魃であつたから全然無収穫になつたので前二年續けてかん害に疲弊してゐる所に今度のですから全く暮しに困る事になつたのです、只赤石の方は大變ヒドイ樣に思はれるが當村とて之と甲乙がなく、赤石は鐵道に近く村の人達も事を大きくして騒ぐので一般に知られて居るのだと思ふ、來年からは鹿妻堰の幹線工事が出来たから水に困ることはないと思ふが此の冬はドウして暮らすか副業以外にないが藁工品を作るにしても二尺ソコソコの藁では何も出來ないから矢張り他縣から買はねばならぬし製筵機も縣から二十五臺配當されただけで不足だから之も増して何とか此の冬だけを凌いで行きたいと考へてるが今まで景氣がよいのになれ贅沢になつて居たから之を引き締めるには却つて良いかも知れません
さらに次のような見出しの記事が続き、
辨當を持たぬ小学生のいぢらしい姿
校長は毎日泣かされて居る
とても正視はできない
村民の生活もやうやく窮乏を告げ初め舊正月に餅をつき得ない者が大部あらうとの見込みで地主さへももち米は買はなければならないといふ、之は自分の田で出來たものではろくな餅にならないからである、村民の食物は小學児童の晝食辨當で大躰を察知することが出來るが岡村校長は
高等科の生活は割合によい家庭だが辨當をもたづにくるものが十二三人あり三年以上五百五十人中八十九人はべん當をもたずに來て晝の休み時間は他人の辨當を食べてゐるのを見かねて屋外であそんで居る姿は實際可愛想です、べん當を持つてきても夫々他人に見られるのがいやで新聞紙の中に顔を埋づめる樣にして時々周囲の眼を見渡しながらマルデ盗んだものでもたべてる風にして居り會食の教員も涙なくして見られぬといつて居りますが親たちの身になつてみれば自分は食はずとも子供にべん當を持たせてやりたいのが人情ですのに夫さへ出來ないものとみへます、べん當の多くは大根が半分以上這入つたものか、くだけ米の団子、小麦粉をねつたもの等で通學の途中ある児童は一昨日から団子ばかりたべてるが米の御飯がたべたくなつたと話したそうですが…
と伝えているし、この他にも同紙面には、
・炭俵の賣日なく赤石村民糊口の糧苦む
・志和も不動と大差ない慘状
という見出しの記事もあり、大正15年の紫波地方の旱魃被害は凄まじい惨状にあり、その惨状を呈しているのは赤石村のみならず、不動村も志和村も同様であったといえよう。
そしてその後も旱害の報道は続き、
◇1月19日付『岩手日報』には、
・寒さと飢えに泣く村人
という見出しの記事があり、
得能知事が旱害地視察
寒さと飢えになく村民
正視するに忍びない彼等のドン底生活
紫波郡地方のかん害慘状は日一日と深刻の度を増し行きやがて來るべき越年の喜びも今はどこへやら同地方では舊年末をひかへて益々慘苦は激甚を極め村民は只飢えとさむさにふるえて居る得能知事は殊にもこの慘狀に深く同情し救濟方法として常に製筵事業を奨勵する一方再三同地を訪ねては善後策につき絶えずアタマを悩まして居るが十八日更に猪股勧業課長、藤原技師、佐藤篤の関係職員を隨へて最もひどく被害影響を被つて居る古館、志和、赤石日詰の一町三ヶ村を巡視し困窮のドン底に喘ぐ村民たちの實生活を詳細に視察したが各村ともドコの軒をのぞいても正視するに忍びない悲慘な生活狀態であった
赤石村にも劣らぬ古舘村の慘状
舊年末を控えて益々窮乏を告ぐ
古館は赤石におとらぬ慘状を呈し舊年末をひかへて益々窮乏をつげてゐる仝村役場の調査に依れば耕地反別二百町歩のうち収穫皆無は八十町歩の大きに達し減収反別を加へれば百二十町歩の多きに達し昨年の五千三百石収穫高に比し約三千石減収二千石の収穫であるが之とても品質は非常にわるく、一石につき六圓の格差を示し市場等には販賣も出來ぬ有り樣であると、右について高橋古館村長は語る
本年のかん害は自作人も小作人と同樣明日の食糧にも窮する有り樣で之が救濟策としては、縣の奨勵方法に基き十三日から二十臺の製筵機をかり受けて製筵事業を始めましたが何しろ未だ日も淺い事とて只今の處講習を行って居ます
という報道があり、古舘村に関して言えば、
大正15年の収穫高は2,000石
であり、前年の5,300石と比べれば
2,000÷5,300=37.7%
だから、6割強もの減収だったことになる。しかもその上に米の品質は極めて悪かったのだ。
なんと、紫波地方の旱魃被害によって惨状を呈していたのは赤石村、不動村、志和村のみならず古館村もまた同様であったということを知ることができる。
◇1月25日付『岩手日報』には
志和村の収穫僅かに三十二石
という見出しの記事があり、同村の一日の消費は2石2斗8升なので、たった16日分(正しくは14日分?)しか穫れなかったという内容であった。志和村の旱害の凄まじさがわかる。
そして、
◇1月26日付『岩手日報』には、
舊年末を前に本縣下の農村は破産の狀態
借金の苦しさに土蔵を賣拂ひ
家を閉ぢて逃げ隱る
二三年この方つゞいた未曾有のカン魃とお米が捨て賣り同樣の安値のため農村では舊年末を前に悲境のドンぞこに落ちてゐる。これがため家財を賣り、遠くで稼ぎに赴いた者も數尠なくない模樣で稗貫郡某村の如きは中産以上の農家でさへ年末の支拂ひに二進も三進も行かず、祖先伝來の土地を賣り拂つたとの哀話もあり、毎日借金取りに攻められるので、致方なく家を閉ぢて水車小屋に引き移ってゐるといふ話しもある。況して旱害の程度も一層深酷であつた紫波地方の難民は日々の生活にさへ困窮してゐる者が多くその慘狀は全く事實以上であらうとのことだ。かくて本縣下の農村はいまや経濟上破産狀態にあるがやがて本縣にもいむべき農村問題社会問題がもちあがるのでないかと識者間に可なり憂慮されてゐる
という報道もあり、この記事は隣の紫波郡のことではなくて賢治の住む稗貫郡内のことであり、そこの中産以上の農家でさえも先祖伝来の土地を売り払ったという哀話である。まして紫波地方のそれに至っては農家は破産状態、困窮の極みにあるというとどめを刺すような記事である。さぞかしこの記事を見ながら賢治は心を痛めたであろうと思われるのだが…。
以上のように、年が明けてからも相変わらず新聞は紫波郡の未曾有の大旱害の惨状等を報じていた。その中で一つだけ、嬉しい次のような記事が、
◇2月24日付『岩手日報』に、
稗貫太田村靑年團より旱害地へ餅八斗
稗貫郡太田村靑年團にては旱害罹災民見舞として餅八斗を搗き平賀團長統導の下に團員十二名に携運せしめ十八日午前十時九分花巻駅發列車にて赤石村を訪問した
と載っていた。花巻町の隣の太田村の青年達の心温まる救援の報道であった。
ところが一方で、当時の賢治の営為を『新校本年譜』等によって調べてみた限りでは、「下根子桜」移住~昭和2年4月において、この時の旱害に対して賢治が救援活動等を行ったということは見出せない。せいぜいあったのは、
〈一〇二二 〔一昨年四月来たときは〕一九二七、四、一、〉という詩においてその最後尾に初めて、「そしてその夏あの(〈注七〉)恐ろしい旱魃が来た」と「旱魃」に言及していた。
ことだけだった。
では、この当時の羅須地人協会員はどう語っているか。その一人伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協会時代―」において、
その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)395p>
と語り、同じく協会員の高橋光一は「肥料設計と羅須地人協會」において、
藝事の好きな人でした。興にのってくると、先にたって、「それ、神樂やれ。」の「それ、しばいやるべし。」だのと賑やかなものでした。
御自身も「ししおどり」が大好きだったしまたお上手でした。
ダンスコ ダンスコ ダン
ダンダンスコ ダン
ダンスコダンスコ ダン
と、はやして、うたって、踊ったものです。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭44)283p>
と「羅須地人協会時代」の賢治について語っているから、「その頃の冬」の羅須地人協会の集まりはたしかに楽しかったにちがいない。しかも「その頃の冬」とはまさに大正15年末から明けて昭和2年の冬のことである(それ以外の「羅須地人協会時代」の冬には、協会員のそのような「集まり」は開かれていないからだ)。
したがって、前年12月までのことはさておき、帰花後の賢治がこれらの一連の新聞報道を全く知らなかったということはまずあり得ない(〈注八〉)のだから、もし賢治が貧しい農民たちのために献身しようとして「羅須地人協会」を設立したというのであればこのような楽しいことだけではなく、為すべき喫緊の課題があったはずだ。それはまさに、この時の大旱魃被害の救援活動である。そしてそのような活動を賢治が当時していたとすれば、巷間云われているような賢治像からすればなおさらに、「聖人」とか「聖農」と賞賛されて、その具体的な実践活動を多くの人々が証言として残していたはずだ。ところがどういうわけか、そのようなことをこの大干魃の際に賢治が為したという証言等は残念ながら何一つ見つけることができない。
ということは、その頃の「羅須地人協会」の活動は地域社会とはリンクしていなかったと言わざるを得ないし、残念ながら、賢治はこの時の「ヒデリ」に際して、上京以前も、滞京中も、そして帰花後も一切救援活動をしなかったと、「ヒデリノトキニ涙ヲ流シテイナカッタ」と結論せざるを得ないようだ。
そしてこれらのことからは、この時の大旱魃被害の惨状を知って多くの人々があれこれと救援の手を差し伸べていたというのにもかかわらず、賢治がこの惨状に全く無関心であったということが導かれるから、私とすれば、賢治が一切この時に救援活動をしなかったということよりも「無関心」であったことがとりわけ寂しいし、とても残念に思う。
だから当然、賢治も後々この時に無関心だったことを後悔して己を恥じ、懺悔することになるはずだ。
〈注七:本文32p〉ただし、この「その夏あの恐ろしい旱魃が来た」が大正15年の旱魃を指しているかどうかは定かでない。「一昨年四月来たときは」で始まっていることから、この詩が詠まれた日付が「一九二七、四、一」とあるので、この「その夏あの恐ろしい旱魃」とは大正14年のそれとも考えられるからである。
しかも、似たようなことを賢治はあの有名な「一〇二〇 野の師父」でも次のように詠んでいる。
その不安ない明るさは
一昨年の夏のひでりの空を
<『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)108p>
そしてこの詩は、賢治が付けた作品番号から判断すれば少なくとも昭和2年のものであると判断できるから、この判断が正しければこの「一昨年」とは大正14年ということになる。
したがって、賢治は大正15年の紫波郡などの大旱害の認識は乏しく、大正14年の旱魃の方が気掛かりであったとも言えそうだ。ところが、同14年は「ヒデリ」の傾向は確かにあったが、実はこの14年の岩手の米の作柄は近年にない「最豊作」であったということは周知の事実である(大正15年1月28日や同年9月26日付『岩手日報』より判る)。
〈注八:33p〉もし全く知らなかったならば賢治には社会性が著しく欠けていたということになってしまい、大問題となってしまう。
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《新刊案内》この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。延いては、
小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、 『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。
そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。
そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。
現在、岩手県内の書店で販売されております。
なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守 ☎ 0198-24-9813
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