みちのくの山野草

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「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」

2024-01-12 08:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》








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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」
さて、私は先ほど端から「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」を用いたが、このことについてここで一度確認しておきたい。
 †「ヒデリでも不作あり」という事実
 いわゆる『雨ニモマケズ手帳』に書かれている「雨ニモマケズ」の全文は以下のとおりである。
 11.3     
  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラッテヰル
  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  行ッテ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒドリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ
    <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)>
 さて、このことに関してある人は、「ヒデリに不作なし」という言い伝えがあるから「ヒデリ」は農民にとっては歓迎すべきことなので「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たりすることはないという論理によって、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」と訂正するのはおかしいと主張する。しかしながら、こうして大正15年の紫波郡等の大干魃による惨憺たる凶作を新聞報道で知ってしまうと、「ヒデリでも不作あり」という事実があったということになるから、この言い伝えはいつでもどこででも成り立つわけではないということはもはや明らか。よって私はこの論理にくみすることはできない。
 †「ヒドリ」は南部藩の公用語ではない 
 次に、この「雨ニモマケズ」を冷静に読み返してみれば、「ヒドリ」の部分以外は全ていわゆる「標準語」であることは直ぐわかる。となれば、常識的に考えて「ヒドリ」だけが「標準語」ではなくて「方言」だとするわけにはいかないだろうから、「ヒドリ」もやはり「標準語」であると判断せざるを得ない。
 ところが、『広辞苑 第二版』(新村出編、岩波書店)の「ひどり」の項には、
ひどり【日取】或ることを行う日をとりきめること。また、その期日。
しかなく、この【日取】では〔雨ニモマケズ〕において意味をなさないから、この「ヒドリ」は「標準語」としては存在しないことになるのでこれは賢治の誤記であることになろう。
 そこで、対句表現
  ヒドリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
に注意すれば、
  ×「ヒドリ」→〇「ヒデリ」
という判断は極めて合理的である。
 これに対して、「標準語」ではないがそれに準ずる「公用語」としての「ヒドリ」ならばあるといって、和田文雄氏は
「ヒドリ」は南部藩では公用語として使われていて、「ヒドリ」は「日用取」と書かれていた。
という主旨のことを『宮澤賢治のヒドリ』(コールサック社)の中で述べている。「ヒドリ」が南部藩の「公用語」であれば標準語からなる〔雨ニモマケズ〕の中でそれが使われてもおかしくないというのが和田氏の論理のようだ。
 ところが、肝心の、それが南部藩の「公用語」であるとことを裏付けているといって和田氏が前掲書で「引用して転載」している『南部藩百姓一揆の研究』の中の「南部藩の「日用取」の指令」という資料だが、実際に原典『南部藩百姓一揆の研究』(森嘉兵衛著、法政大学出版局)で確認してみたところそこにはそのようなことは記されてはいない。
 ちなみに、和田氏が「引用して転載」したと言っている「南部藩の「日用取」の指令」については、
   南部藩の「日用取(ヒドリ)」の指令
 一 御領内御境筋表ニ他領出入之義前々より御停止之処ニ、不心得之者共他領間遠之所ニ而ハ乍当分御境を越、日用取、月雇等相成渡世仕候者茂多ク有之由ニ而、却而其筋之御領分ニ而ハ耕作働之者不足仕候故、奉公人等召抱候ニ及差支候由ニ付、御代官共稠舖申付置候旨申出候、依之村々向後一ヵ年二季人別之改年々被仰付候間、改之砌不於合者委ク御詮議之上、他領罷出候事相知候ハヽ相返、急度曲
【和田氏の当該ページ(一部抜粋)】

【森氏の当該ページ(一部抜粋)】
事可被仰付候、尤奉公人日雇等他領江之人元ニ罷成候者本人同罪可被仰付被仰出
  寛保四年正月
      (森嘉兵衛『南部藩百姓一揆の研究』から)
<『宮沢澤賢治のヒドリ』(和田文雄著、コールサック社)71p >
となっているが、出典である森嘉兵衛著『南部藩百姓一揆の研究』の当該ページは次のような中身であり、
  第三節 延享元年黒沢尻・鬼柳通新田開発反対一揆
 一 新田開発の奨励
財政政策の一環として行われた新田開発は、享保・寛保の検知の結果予想以上の成績をあげたので、さらに計画を拡大し、黒沢尻通では享保三年十月から新田開発のために和賀川をせきとめて、新堰を掘り、畑返し新田を起こすととし、その人夫として、郷中から一人一日十文の賃金で徴発し、開発に当った。しかし、それはあまりにも低賃銀であり、人夫に出る百姓がない。やむなく賃銀を四十五文に引き上げ、半ば強制的に高割りに徴用をかけた。しかし、当時農村の賃銀は高騰を続け、遠く他領まで出稼ぎする者が増加していた。当局もこの現象に気がつき、「二郡中身売払底在々之者共下人召抱殊之外差支候由」につき二郡代官に命じて、他領に奉公に出ている者を召喚せしめたところが、安俵・高木通から男女百五十二人、二子・万丁目通から八人、鬼柳・黒沢尻通から百五人も出稼ぎしていた。当局は領内の労働力を確保するために、指令を出して、
一 御領内御境筋表ニ他領出入之義前々より御停止之処ニ、不心得之者共他領間遠之所ニ而ハ乍当分御境を越、日用取、月雇等相成渡世仕候者茂多ク有之由ニ而、却而其筋之御領分ニ而ハ耕作働之者不足仕候故、奉公人等召抱候ニ及差支候由ニ付、御代官共稠舖申付置候旨申出候、依之村々向後一ケ年二季人別之改年々被仰付候間、改之砌不於合者委ク御詮議之上、他領罷出候事相知候ハヽ相返、急度曲事可被仰付候、尤奉公人日雇等他領江之人元ニ罷成候者本人同罪可被仰付被仰出
  寛保四年正月   
〈注:傍線  筆者〉
   <『南部藩百姓一揆の研究』(森嘉兵衛著作集第七巻、法政大学出版会)78p >
となっている。
 ということは、この上掲文章中の傍線〝  〟部が、和田氏が『宮沢賢治のヒドリ』で引用したと言っている部分に相当しているはずだ。すると直ぐ判るように、森氏の方になくて和田氏の方にあるのがタイトル「南部藩の「日用取」の指令」であり、さらにそのフリガナ「ヒドリ」であるから、和田氏は引用する際に、このタイトルとフリガナを自分で付け足したことになる。南部藩が出した指令は「領内の労働力を確保するために、指令」と森氏は述べているのにもかかわらず、である。だから私には、南部藩が出したこの指令が「南部藩の「日用取」の指令」とタイトルできるようなことまでは森氏が述べているとはどうしても思えない。もちろん、その指令の中に「日用取」という用語は見出せるが、その「日用取」に「ヒドリ」などというフリガナも付いていない。これでは和田氏は神聖なる資料を改竄してしまったという誹りを受けかねないので、私は和田氏のこのような主張を肯うわけにはいかない。
 よって、件の「ヒドリ」は南部藩の「公用語」と言い切れるわけでもなく、それが「日用取」と書かれていたということやそのフリガナが「ヒドリ」であったということを森氏が述べていたというわけでもないから、どうやら私は、今までもこれからも
「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の書き間違いである。
と判断するのが極めて合理的であるとするしかないようだ。
 このことに関連しては、入沢康夫氏は論考「「ヒドリ」「ヒデリ」問題のその後」の中で次のように述べている。
 このなにやら詐術めく引用の仕方については、先にも触れた花巻の鈴木氏が、「みちのくの山野草」の二〇〇八年十一月三〇日付「和田文雄氏の『ヒドリ』」、同年十二月一日付「『南部藩百姓一揆の研究』の78p」、同年同月七日付「『日用取=ヒドリ』の新たな検証を」の三回を使い、森氏著書の該当部分の写影をも添えて、指摘しておられる。
<『賢治研究 121号』(宮沢賢治研究会、平成25年8月)4p >
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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