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「本物の百姓」になりたいわけではなかった?

2024-01-13 08:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》








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 「本物の百姓」になりたいわけではなかった?
 ここまでの考察の結果、残念ながら、大正15年の賢治は
   ヒデリノトキニ涙ヲ流シテイナカッタ
ということを私はもはや否定できなくなってしまったようだ。しかも、ずっと今まで腑に落ちなかったことの一つに、どうして賢治は甚次郎に「小作人たれ」と強く迫ったのに、なぜ賢治自身は小作人になることもせず、田圃を耕すこともしなかったのだろうかということがあった。
 このようなことに思い悩んでいた私はある時、小菅健吉の次のような追想「大正十五年の秋」をしばらくぶりに読み直して、それまで大いなる誤解と思い込みがあったのではなかろうかということに気付いた。
 大正十五年の秋、米国から帰国したので母校に挨拶に行き花巻の賢治を訪ねた。
 羅須地人協会(現在記念碑の立つてる所)に住み、五十米程離れた所にかまどを作り、めんどう臭いからと云つて、四・五日分の飯を炊いて居た。其の夜は種々語りあつた事を思い出す。
 その頃は、花巻農学校をやめて、花を作つて売つて居たのだつた。
 容姿、風采など実に無頓着。そのあたりの百姓男とかわりない様子をして居た。秋の終わりだと云ふのに麦わら帽子をかぶつて居た。花売りに行つても西洋草花などあまり売れない様であつた。
 羅須地人協会にオルガンを備へつけ、附近の青少年を集めて農民芸術をとき、農民に耕作設計を教へ、農事相談等もやつて居るとの事だつた。
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著、刊行会)250p>
 さて、小菅が訪ねたこの時期のことだが、小菅が米国から帰国した時期と一致するわけだからまずは間違いなかろう。つまり、小菅は大正15年の秋の終わりに「下根子桜」の賢治の許を訪れたことはほぼ確かであり、一般に「秋」といえばその期間は9月~11月だから、小菅は大正15年の11月頃に羅須地人協会に行き、賢治といろいろと話し合ったとほぼ断定できそうだ。
 丁度その頃といえば、紫波郡内の干魃被害が甚大であることがいよいよ明らかになっていった頃であり、千葉恭もまだ羅須地人協会で一緒に暮らしていた頃であり、高瀬露がそこに出入りし始めた時期でもある。そして賢治は、間もなく約一ヶ月の上京をしようと企てていたであろう直前の時期でもある。そのような時期の賢治の許を、アメリカ帰りのあの「アザリア」の仲間が訪ねて来たわけだから、賢治も普段とは違った意識と気持ちであっただろう。かといって、そのような小菅の前で見栄を張ることも空しいことだから、この時に小菅に対して賢治が語ったことにあまり大きな嘘はなかろうということに私は思い至った。言い換えれば、小菅が伝える「花を作つて売つて居たのだつた」も「花売りに行つても西洋草花などあまり売れない様であつた」も共に当時の賢治の実態と本音であり、このことから私は次のようことも充分にあり得たということを考えるに至った。
 それは端的に言えば、
 大正15年頃の賢治は「花卉等の園芸家」になろうとしていた。……①
ことが当時の彼の最大の目標であったのだった、と。決して巷間言われているような、
 俸給生活にあこがれる生徒たちに、村に帰れ、百姓になれとすすめながら、自分は学校に出ていることに対して、矛盾を感じたことからでしょう。
<『野の教師 宮沢賢治』森荘已池著、普通社)231p~>
ということが農学校を辞職した真の理由でもなければ、周辺に沢山いるような貧しい「本物の百姓」になろうとしていたことがその真の理由でもなかったのだと。
 たしかに、花巻農学校を突然辞めて「下根子桜」に移り住んだ賢治は「本統の百姓」になることは目指しはしたのだろうが、賢治はもともと自分で田圃を耕す小作人のような生活をしようとした(=「本物の百姓」になろうとした)わけではなく、それは〝①〟のためであった。つまり、当時の賢治の最大の目標は、賢治が自分の頭の中で思い描いている新しいタイプの百姓になることであり、それを賢治は「本統の百姓になる」と言っていたのであり、具体的には
    「本統の百姓になる」=「花卉等の園芸家になる」
    ≠「本物の百姓になる」
ということであった、ということも私は真剣に考えなければならなくなったようだ。
 そういえば、このことは次のようなことなどからも窺える。まずその一つは、「下根子桜」に移り住んで直ぐ森荘已池に宛てた手紙(4月4日付書簡218)には、
お手紙ありがたうございました。学校をやめて今日で四日木を伐ったり木を植えたり病院の花壇をつくったりしてゐました。もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました。東京へその前ちょっとでも出たいのですがどうなりますか。百たびあなたのご健勝を祈ります。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)>
と賢治は書いているから、賢治が花巻農学校を辞めて初めて外部に対して為した仕事が「病院の花壇」造り(これが佐藤隆房の花巻共立病院のそれであると『新校本年譜』は断定している)という園芸の仕事であったからである。
 もう一つは、伊藤光弥氏が『イーハトーヴの植物学』の中の「教え子たちの証言」という節の中で、『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭和33年)から例えば次のような教え子の証言を幾つか抜き出して、おおよそ次のように論を展開していることからである。
 教え子の回想には次のように、賢治と草花を結びつける証言も多い。
・春になると北上川のほとりの砂畠でチューリップや白菜をつくられたのである。宅の前には美しい花園をつくって色々な草花を植ゑられた。(平來作、272p)
・ある年の同窓会総会のときに先生は、卒業生で種苗協会を作ってアメリカやその他の国から新しい草花などを取り寄せて田園を大いに美しくしようではないかと提案されたことがあります。(浅沼政規、257p)
・また或日は物々交換会のような持寄競売をやった事がある。主として先生が多く出して色彩の濃い絵葉書や浮世絵、本、草花の種子が多かったやうである。(伊藤克己、280p)
・そういえば種苗商をやれと云われたこともある。(小原忠、288p)
 教え子の回想を総合すると、賢治は種苗協会のようなものをつくり、草花や西洋野菜を栽培する共同の事業を始めたかったらしい。学校を辞めてすぐ始めた花壇作りは、その前段階だったようにも思われる。
<『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)76p~>
と。たしかに、前掲書『宮澤賢治研究』で確認してみるとそれぞれの回想はその通りであった(( )内の数値は当該の頁)。
 となれば、先の小菅の証言から導き出された35pの〝①〟の信憑性がさらに増したと言える。そしてこの〝①〟は、賢治が昭和3年6月に上京した大きな理由が、
 (伊藤七雄の)胸の病はドイツ留学中にえたものであったが、その病気の療養に伊豆大島に渡った。土地も買い、家も建てたという徹底したもので、ここで病がいくらか軽くなるにしたがって、園芸学校を建設することになり、宮沢賢治の智慧をかりることになったのである。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)191p>
ということであれば、たしかに頷けるし、
 (伊藤七雄は)体がよくなってくると大島に園芸学校を建てようと思いつき、その助言を得るため、羅須地人協会で指導している賢治を訪ねてきた、というわけである。
    <『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、圖書新聞社、昭和41年発行)243p>
という理由であったとしたならば、これとも符合する。
 さらには、「伊豆大島行」を終えてからも、その頃故郷では農繁期(猫の手も借りたいといわれる田植の時期であり、植えつけた苗の生育が心配な時期)であったのにもかかわらず、賢治はすぐに帰花せずに帝国図書館に出掛けて行き、当面差し迫ったこととは思えぬ『BRITISHU FLORAL DECORATION』の原文抜粋筆写及び写真のスケッチを手間暇かけて行い、『MEMO FLORA手帳』を作った(〈注九〉)ということも、
 「羅須地人協会時代」の賢治は「花卉等の園芸家」になろうとしていたし、なり続けようとしていた。……②
のであったとすればすんなりと腑に落ちる。こうなってくると当然、この〝②〟は有力な仮説となる。
 つまるところ、「下根子桜」に移り住んだ賢治ではあったが、賢治のその当時のその最大の目的は、「貧しい農民たちのために身を粉にして献身する」ということなどではなくて、あくまでも〝②〟のためであったという蓋然性が増してきた。そしてそれは、「下根子桜」から撤退して豊沢町に戻ってからの、病気がある程度回復した際に書いた『銀行日誌手帳』の栽培日記からも〝②〟は傍証されそうだ。
 だからもしかすると、賢治が突如花巻農学校を辞めて「下根子桜」に移り住んだのは、草花や西洋野菜を栽培する園芸家(=「花卉等の園芸家」)になろうと急に思い立ったからであり、
 「花卉等の園芸家になる」=「本統の百姓になる」
という等式が賢治の場合に成り立つが、一方で、賢治は「本物の百姓」になりたいわけではなかった、とも言えそうだ。
 まさに菅谷規矩雄が指摘(〈注十〉)するとおり、
 なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶ「下根子桜」の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていない。
ということだったのかもしれない。
 となれば、私はこれまで大いなる誤解と思い込みがあったということをここで認める必要があるのかもしれない。言い換えれば、このように賢治のことを解釈すれば、少なくとも大正15年の未曾有の旱魃罹災に際して当時の賢治が一切救援活動等をしなかったという事実もある意味納得できないこともない、ということに私は思い至ったからだ。また、先に掲げた「賢治自身は小作人になることもせず、田圃を耕すこともしなかったのだろうか」という疑問もこれだとほぼ氷解する。

〈注九:本文36p〉土岐 泰氏の論文「賢治の『MEMO FLORA手帳』解析」(『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)所収)より。
〈注十:本文37p〉菅谷規矩雄氏は、    
 宮沢がつくったのは、白菜やカブやトマトといった野菜がほとんどで、主食たりうるものといったらジャガイモくらい――いや、なにを主食とするかのもんだいと、作物の選択とがついに結び合わないのである。トウモロコシや大豆はつくったらしいが、麦のソバも播いた様子がない。
なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていないことである。それがいかなる理由にもせよ、宮沢の〈自耕〉に〈稲作〉が欠落しているかぎり、「本統の百姓になる」ことも自給生活も、ともにはじめから破綻が必至であったろう。
<『宮沢賢治序説』(菅谷規矩雄著、大和書房)98p~>
と論じているが、私もこの「二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていない」という指摘はその通りだと思うし、このことに私たちは目を背けてはいけないのだとこの頃は思っている。さもないと、賢治の真実を見誤る虞(おそれ)があるからだ。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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