みちのくの山野草

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埋経について

2018-04-20 10:00:00 | 法華経と賢治
《『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)の表紙》

 今回は〝◎埋経について〟という節に入る。それは次のようにして始まっている。
 「雨ニモマケズ手帳」の中で次に注目したいのは「埋経」についての記載が三ヶ所あることである。
            〈『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)209p〉
 ではそれらは具体的にはどこにあるのかというと、下掲の三ヶ所にある。
【Fig.1 135~136p】

【Fig.2 143~144p】

【Fig.3 151~152p】

       〈いずれも『復元版『雨ニモマケズ手帳』》(校本宮澤賢治全集 資料第五、筑摩書房)〉
 
 まず最初の【Fig.1 135~136p】に関してだが、田口氏は、136pに「経筒」の略図が描かれていると指摘し、同氏はこれに先立って、この「経筒」とは教典(主に「法華経」か「阿弥陀経」)を納める筒のことであり、
 埋経とは「教典を後世に伝えるため、経筒などに封入して地中に埋納すること。またその経典。」(広辞苑)ということである。
            〈同209p〉
と説明していた。
 さらに、経筒を埋納した場所が経塚であるとか、これに類したものとして「経石」(経文を小石に一個に一字ずつ記し土中に埋める)があるということも同氏は説明していた。
 また「経筒」の略図の中には、
   奉安
    妙法蓮華経全品
      立正大師滅後七百七拾年

と書かれていると同氏はいう。

 では次に【Fig.2 143~144p】に関してだが、左上端に
    経埋ムベキ山
と書かれているから、これらの32座の山々<*1>はその経筒を埋めるべき山ということになろう。
 なおこれらの山々については、〝『宮澤賢治の里より』目次(1頁)〟という投稿において、私はそれと思われる山にかつて全て登り、それぞれの山について報告しているので同投稿をご覧いただきたい。ちなみに、「経埋ムベキ山」(【Fig.2 143~144p】)の一番最初に挙げられている「旧天山」には「法華経一字一石塔」がある。また同じく「経埋ムベキ山」の一つ「(高松)観音山」には経塚があったというし、「一字一石経塚塔」が建っている。あるいは同じくその一つ、「蝶ヶ森」にも経塚があったといわれている。

 そして最後の【Fig.3 151~152p】についてだが、田口氏によれば、右の頁には経筒に記すべき銘文の文案、
 此ノ筒法滅ノ后至心
 救法ノ人ノ手ニ開カレン
 妙法蓮華経コトヲ翼ウ
 此ノ経尚世間ニ
 マシマサバ人コノ筒
 ヲトルコトナク再ビ
 コノ地中ニ安置
 セラレタシ
  経  筒
    妙法蓮華経
             (『新校本全集』第十三巻上)

が書かれており、左頁には再び経筒の略図が画かれているという(同218p~)。さらに同氏は、
 銘文の意味は「この経筒は仏法が滅びた後誠実な心で仏法を求めて世に広めようとする人の手によって開かれことを願う。もしこの経筒を見つけた時に、まだ法華経が世に行われているならば、見つけた人は、この筒を我が物にしないで、もう一度この地中に安置して下さい。」
と解説していた。

 それから、その名「経埋ムベキ山」から覗えるように、賢治自身がこれらの32座の山に経筒を埋めたわけではない。どの一つの山にも彼はそれを埋めたわけではなく、「埋ムベキ」と、埋めてほしいと願った山にずぎないのである<*2>。また、それと思しき32座の山々の全ての頂上に立ってみた私からすれば、当時の交通事情・時間的余裕・賢治の体調・地形図は当時は五万分の一・登山路の不備等に鑑みて、賢治は「経埋ムベキ山」の全ての頂きに立ってはいないということを確信した。

 さて、これで、『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)を通じて法華経や国柱会のことを学ぶことは終えたい。
 なお、今まで学んできた「賢治と法華経」のことをいずれかの機会にまとめ直してみたいと今は思っているのだが、いつのことになりますやら……。

<*1:投稿者註>【Fig.4 「経埋ムベキ山」一覧】

 記号の意味はそれぞれの山が
(1) 花巻から見えるか→見えれば○印、見えなければ×印
(2) 三角点がある→あれば△印
(3) 頂上あるいはその周辺に神社、祠、石碑、権現様等があるか→あれば◎印
(4) 宮沢賢治の作品に登場するか→登場すれば☆印
  なお、(4)の黒色文字は『宮沢賢治の山旅』(奥田 博著、東京新聞出版局)による
      (4)の赤色文字は私見(顕わには出ていないが渾名で登場、舞台として)

<*2:投稿者註> 『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉 豊文著、東京創元社)によれば、
 以上の諸山の中の若干には、賢治の父政次郎翁と令弟清六氏の手によって、彼の遺言によって印刷された国訳法華経が、この手帳の一五二頁に図示されたような経筒に納めて一九三五年(昭和十)年頃から次々に埋納されたとのことである。

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