気の向くままに

山、花、人生を讃える

美しき夕焼け

2018年10月08日 | その他

今日の夕方、夕食の買い物に出かけた家内から、「まだ夕焼けじゃないけど、すごくきれいな空だよ」と知らせて来たので、外に出てみると、空に雲が映えて美しかった。それで、見事な夕焼けになりそうだったので、すぐカメラを持って近くの視界の広いところまで行き、久しぶりに夕焼けの写真を撮った。

 

 

 

 

 

自宅の近くに、広々と美しい空を眺められるところがあるのは有難い。

こんな空を眺めていると、心まで広々とひろがり、美しさに満たされるようだ

 

考えてみれば、人の心は素晴らしいものだと思う。

一瞬にして、こんなに美しい空を自分の中にとりこんでしまうのだから。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「小さな死』

2018年10月08日 | 人生

昨日、「思うようにいかない悲しさを乗り越え」を書きながら、同時にシスター・渡辺和子さんの話を思い出していました。

 

以下の「小さな死」と題する文章は、You/Tubeで渡辺和子さんが話されていることを、以前に文章にしていたものです。あらためて読んでみてしみじみ伝わって来るものがあったので、アップさせてもらうことにしました。読んでいただければ幸いです。

 

『小さな死』

私が小学校3年生の9歳の時の事でございました。昭和11年2月26日の朝、1台のトラックに30数名の陸軍青年将校たちが乗ってまいりまして、私の家を襲撃し、私の眼の前で父を殺して引き上げていきました。世に2.26事件と呼ばれている昭和のクーデターでございまして、この時を境に日本の国は戦争へとひた走っていくことになります。

 

私にとっては悲しく辛い出来事でございました。朝の6時前だったと思いますけれども、その時まで床を並べて休んでおりました父が、ほんの数分間の間に冷たい骸となって物言わぬ人になってしまった。雪の降り積もった朝、真っ白な雪の上に点々と残っていた血の跡、軽機関銃の音、その光景と音をわたしは多分一生の間忘れないだろうと思います。

 

この事件は、同じ部屋で物陰から見ておりました9歳の私に、いろんなことを教えてくれました。
一つは人のいのちがほんとに儚い、強くて優しくて大好きだった父が、ほんの数分の間に死んでしまった命の儚さと、したがって命の尊さ、それを一つ教えてくれました。

 

それからもう一つは、自分たちの目的を遂げるために手段を選ばない人の心の恐ろしさというものも教えてくれました。

 

そして3番目に、人を殺すのは必ずしも43発の鉛の球ではなくて、その軽機関銃を撃った人、さらに言えば、その背後にあって撃たせた「人の心」です。その意味で私たちが本当に心に平和をもつこと、その事の大切さを教えてくれました。

 

父が亡くなりましていろいろと苦労も致しましたし、18歳の時にカトリックの洗礼を受け、それから30歳になるまで家庭を助けるために働いて、そして修道会に入りました。その前後、よく人さまから「あなたはお父様を殺した人を恨んでいますか、憎んでいますか」と訊ねられ、そのたびに「いいえ、その方たちにはその方たちのお考えがあってのことですから」と答えていました。

 

ところが修道院に入りまして20年も経った頃だったでしょうか。 2月26日の前後に関西のあるテレビ局から、殺された側の唯一の生き残りとして、その当時右傾化していた日本において、2.26事件の恐ろしさというものをぜひ語って欲しいと言われて、何回もお断りしたんですけども、仕方がなくテレビ局に行ったことがございます。そうすると、びっくりしたことに、わたしに何の断りもなく、父を殺した側の人が一人呼ばれて来ていらっしゃいました。

 

二人の間に何の話もあろうはずもなく、手持無沙汰でおりましたところ、局の方が気を利かしてコーヒーを出してくださり、朝の10時頃でございましたから、私も喜んでコーヒーカップを手に取って口元まで運んでいきながら、とうとう自分の父を殺した人を前にして一滴もそのコーヒーが飲めなかったことがございました。

 

その時に私がしみじみ思いましたのは、人間というものは頭や心で赦していても、言葉で赦すと言っても、体が赦さないということをしみじみ思いました。そして、同時に私の中にはやっぱり父の血が流れていると、ちょっと嬉しかったことも覚えております。

 

父を殺した人を心から赦すということは、言うのは易しいですけども、なかなか難しいことだと、その時に知りました。しかし、それよりもっともっと難しいのは、日々の小さなことで自分を傷つけたり、自分に対して意地悪をしたり、悪口を言ったり、悪意の塊でしかないようなそういう人たちを赦せるかということだと思います。

 

私が修道院に入りました時に目上の方に、「私はイエス様のように十字架の上で死ぬ覚悟ができています」と生意気に申し上げました時に、目上の方が「いいえ、これからのあなたの十字架は、毎日毎日針の先でチクチク刺されるような、そういう痛みを笑顔で受けることなのですよ。決して華々しい死ではなくて、本当に人知れず、人知れず自分が受ける小さな苦しみを人に悟られることとなく受けていくこと」と、おっしゃってくださいましたけれども、本当に私はそうだと思います。

 

そして、修道院に入りましてから今50年経っておりますが、私は、日本語ではちょっとおかしな言葉かもしれませんけども、「小さな死」という言葉を自分の一つのモットーにしております。

 

それは、人は誰しも迎えなければならない「大きな死」のリハーサル、それを毎日繰り返すということです。リハーサルをすればするほど本番が落ち着いてパフォームすることができるように、毎日の生活の中で「小さな死」を事あるごとに繰り返すことによって、しかも美しく繰り返していくことによって、もしかしたら大きな死を、心静かに美しく迎えることができるかもしれないと思います。わかりませんけれども、自分の毎日の体の不調とか、むつかしい人間関係とか、どうしても人様に話さなければいけない嫌なこととか、腹が立つこと、たくさんそういうことがございますけれども、そういうことを一つ一つ逃げないで自分らしく受け止めていく。

 

そしてもう一つ大切なのは、頭で「小さな死」を遂げるのではなくて、口の中で「小さな死」と、人に聴こえないようにつぶやくことなんです。これはわたしが経験して習いました。頭だけで、心だけで思っているだけでは駄目なんですね。やっぱり自分の口で「小さな死」とつぶやく。そうすることによって何か「小さな死」を意味あるものに変えることができると思います。つまり私たちは人に殺されるのではなくて、自分が主体性をもって死ぬんです。しかも、それは意味のある死に変えることができるんだと思います。

 

八木重吉という信仰詩人の詩に

 

              神のごとく赦したい

              人が投ぐる憎しみを胸に温め

              花のようになったならば

              神に捧げたい

 

という詩がございます。本当にそうです。自分に投げかけられる様々な苦しいこと、嫌なこと、辛いこと、それをしっかり受け止めて、自分の胸の中であたためて、いつの日かそれがお花のようになったときに、それを神様に捧げたいと思います。

 

キリストさまは死んで「生きる道」を示してくださいました。私たちも「小さな死」を日々繰り返すことによって、この死がいつか豊かな実りとなってくれるよう願いながら生きていきたいと思います。

 

以上が渡辺和子さんのお話ですが、実際に渡辺和子さんの話を聞きたい方は、ここをクリックしてください。

https://www.youtube.com/watch?v=RwzQ84y7dNE

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする