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「一神」と「多神」、違いありや、なしや?

2024年05月22日 | 人生

先日、日本に在住している西洋人ユー・チューバーの動画を見ていたら、「日本人は神社にもお寺にも同じようにお詣りし、そしてクリスマスも祝ったりする、こういうところが私はとても気に入っている」とそのユー・チューバーは言っていて、「ああ、こんな受け取り方をする西洋人もいるんだ」と少し嬉しくなったことだった。

 

一般に日本人は多神教といわれ、一神教の人からは、節操がないように思えるらしいが、これは節操がないというよりも、こだわる必要がないと思っているだけの事だろうと、私は思う。

 

それに、「一神教」、「多神教」と区別すると、この二つはまるで正反対にも思えるが、しかし、「一神即八百万(やおよろず)の神」とか、「一仏即一切仏(いちぶつそくいっさいぶつ)」と考えれば、「一神教」も「多神教」もなんの違いもないと思う。

 

古事記の冒頭に名前が違う七つの神様が続けて出てくるが、その後、「これらは一つの神なり」と書かれている。神様の色々の御徳や、お働きによって、別の名前がついていても、元は同じ一つの神であるから、「多神教」といってもよく、「一神教」といってもよいわけだ。

 

それは、一人の人間が、子供から見れば「父」であり、妻から見れば「夫」であり、親から見れば「子」であり、会社では「係長」とか「課長」と呼ばれたりするように、役目によって呼称が違ってくるのと同じことなのだろうと思う。

 

一神教といわれるキリスト教にもいろいろな天使がいるそうだが、日本ではこの天使に相当するものも、やはり何々の神というふうに神という名前が付けられているから、さらにたくさんの神様があるように見えるが、やはり「一神即八百万(やおよろず)の神」であることになる。

 

この地球上にはいろいろの人種があるが、住む地域によって肌の色に違いはあっても、人体の構造は同じであるし、ユー・チューブを見ていると、文化や慣習、考え方に違いはあっても、やはり「同じ人間」ということは誰もが感じることだと思う。その人類の製造元とも言うべきものがあるとするなら、それは人種の違いに関係なく、製造元は同じであるに違いない。

 

だから、神社に行っても、お寺に行っても、拝んでいる対象はその製造元である「一つのもの」を敬い、お参りしているのだと思うし、同様にクリスマスを祝っても、おかしなことではなく、節操がないのでもない、むしろ歓迎されるべきことではないかと思う。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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