常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

煩悩だらけの座禅

2010年05月26日 | ヒーロー&アニメ

B型H系」を見ていて、ツッコまずにはいられなくなりました。

修学旅行で、座禅をすることになった面々。そのなかで、金城さんの見事な座禅は、お寺のお坊さんたちを唸らせました。

-この少女、既に禅の道を体得している-

いやしかし、実際のところ、金城さんの内側では大変な煩悩が渦巻いていたのです。


座禅中の金城さん


悟りの境地を体得?


中では大変なことに・・・

もちろん、これは単なるアニメのお笑いネタです。しかし、実際のところ、この話のなかには、本来の悟りの境地に通ずるものがあるとも思うのです。

生きていると、いろいろな感情を持つことになります。しかし、世の中、嬉しい時にただ笑っていればよいというものではなかったり、腹が立った時にただ怒ればよいというものではなかったりします(「感情の主人たれ」参照)。この点、もし阿修羅像のように顔が3つあったら、ひとつは泣いて、ひとつは怒って、ひとつは笑って・・・という使い分けをしながら、相手に応じて、都合のよい顔を見せておけばよいということになるのでしょう(そういう意味で、「キン肉マン」に出てくるアシュラマンは、至極、正しいのではないかとも思います)。

けれども、残念ながら、人間の顔はひとつです。つまり、どれだけ大きく複雑な「喜怒哀楽」を抱えていようとも、それをいくつもの顔で表すことはできず、どれかひとつの表情をするしかないわけです。そしてそれは、最終的に無表情に近い、究極の「穏やかな顔」に落ち着くのではないかと思います(「達人が見せる早業」参照)。もう少し突っ込んだ言い方をすれば、「喜怒哀楽」の度合いが深ければ深いほど、それを安易に表情に出すことは適わず、それを奥深くに沈めた「穏やかな顔」になっていかざるを得ないのではないかという気がするのです。

「ある程度の年齢になったら、自分の顔に責任を持て」などという言い方をしたりもします。それはつまり、そうした表情の積み重ねによって、「たったひとつの顔」が形作られていくということを意味しているのでしょう。

いずれにしても、そんなことを考えつつ、内に大いなる煩悩を抱えた金城さんの禅は、単なるお笑いネタで済ますのはもったいなく、ひとつの悟りの境地に向かっていると解すべきではないかと思ったのでした。

※記事の本旨を分かりやすく伝えるため、アニメ作品のカットを掲載してしまっております。著作権関係者の方々には、大変申し訳ございませんが、もし問題があるようでしたらご一報ください。即、削除させていただきます。

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