常識について思うこと

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自分を大切にしていい理由

2008年06月13日 | 人生

自分を大切にするということは、必要なことです。しかし、自分を大切にするということは、一歩間違えれば「自己保身に走る」ことにもなりかねません。

自分を守ることには、紙一重の難しさがあります。子供番組に出てくる正義の味方と悪役の違いは、正義の味方が「みんなのため」に戦うのに対し、悪役は「自己の権力や欲望のため」に戦う点にあります(「正義の味方と悪役キャラ」参照)。これに照らし合わせたとき、「自分を大切にする」行為は、悪役の「自己の権力や欲望のため」の行為に重なって見えるかもしれません。

しかし、私は「みんなのために生きること」と「自分を大切にして生きること」は、矛盾しないと思います。つまり、利他的な生き方と、利己的な生き方は両立できると思うのです。

ある方とお話をしていたときに、「自己保身も結構だが、順序を間違えちゃいかん」という言葉を聞きました。私は、ここに問題の本質があるように思います。つまり、「自分とは何か」、「自分が為すべきことは何か」という問題意識のなかで、自分の存在が全体のためにあると言い切れれば、私はそれを根拠に、自分を大切にすればいいのだと思うのです。それこそが、自分を大切にしてもいい理由でしょう。

何でもいいのですが、自分が守るべき世界や全体観を持ったうえで、それを守ろうとする自分がいて、はじめて自分を守ることが許されるというのが、その方が言いたかったことではないかと思います。つまり、「自分を守ることが、全体を守ることと同義である」と言い切れるだけの自己開発が先にあって、はじめて「自己保身も結構」ということになるのではないかということです。

ただし問題は、そのときの「全体」とは何を指すかということです。家庭全体?部署全体?会社全体?業界全体?国家全体?アジア全体?地球全体?宇宙全体?こうした世界観の規模が大きければ大きいほど、より強く自分を大切にする理由がつくことになります。

既にでき上がったように見える人間でも、なかなかこの規模を極限まで広げて、生きている人はいないように思います。しかし私は、これを無限に広げていくことこそ、人間が生きる理由であり、人間の可能性そのものであると考えます。

「何?そういう世界観を持っていなかったら、自分を大切にする資格がないということか?!」

そういう疑問があるかもしれません。

いえ、誰しも自分を大切にする資格を持っています。しかし、上記のような順序があるのも事実です。そうした世界観を持たない人にも、必ず自分を大切にする資格はあるのだから、常にそういう自分を変えていけばいいだけのことです。壁にぶち当たったとき、自分自身を見つめなおしたり、考え方を変えてみたり、思わぬことに気付いてみたり・・・。誰しもが、何気なくやっていることです。結局、それが生きるということでしょう。

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