
道路脇の緑地帯は、藤川宿の東の入口に当たる棒鼻、見附である。
むかしはこの地を「宇治川の里」と呼んだ時期があったらしい。
この辺りでは周りの藤の花が余りにも見事で綺麗なことから、何時しか
藤川と呼ばれるようになったのだそうだ。

「棒鼻」は「棒端」とも書き、「ぼうばな」「ぼうはな」等と読む。
宿場の境界地に「是より○○宿」などと書かれ、立てられた木製の木杭で、
榜示杭のことだ。
元々は、駕籠のかき棒の先端のことを意味するが、大名行列などは宿場
に入る直前に、この場所で先頭(棒先)の隊列を整えたことから、こう呼
ばれるようになったそうだ。

広重の描く東海道五十三次の画「藤川 棒鼻ノ図」では、傍示杭の立て
られた場所を、幕府から朝廷に寄進する、八朔(旧暦8月)の御馬進献の
一行が差し掛かり、羽織袴を着用した村役人が下座して出迎える様子を描
いている。

広重は「平塚 縄手道」でも傍示杭を描いているが、何れも人の背丈を
遙かに超えるもので、丈の長い木杭が立てられていたと考えられている。
幕末の頃には、石柱に代えられたものも有ったらしいが、多くが木製の為、
現存するものがなく、その大きさは浮世絵などから想像するより他ない。

画では傍示杭の前後には柵を巡らした宿囲い土塁や、何本かの高札も描
かれているので、ここが見附の高札場であることも解る。
この緑地には、傍示杭の横に立つ二本の高札と、柵を巡らした土塁がこの
画を元に再現されている。
東海道37番目の宿場・藤川は、この先の曲尺手を経て宿内へと入っていく。(続)



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