橋本の町を抜け、紀ノ川に架かる橋本橋を渡り、すぐに右折して旧高野
街道の狭い通りに入ってきた。
しばらく行くと道端の「三軒茶屋大常夜灯籠」が目についた。

高野山への参詣道は、古くは慈尊院から町石道を登るのが一般的であっ
たと言う。しかし室町時代後期頃からは、御幸辻から南下し、橋本の地で紀
ノ川を渡り、学文路から登る不動坂道が距離も短いことからこちらが主に用
いられることとなり、天正年間にこの場所に地名の由来になった長さ130m
の木橋が架けられた。

しかしその橋は3年後の増水であえなく流失、その後は舟による「無銭横
渡」が行われたといい、ここがその南岸の渡場跡らしい。

この灯籠には「高野山興山寺領」との銘が刻まれていることから、この川
を超えると当時は高野山領に足を踏み入れたことになる。
京・大阪・堺などから高野山参詣に向け、歩き続けて来た昔の旅人は、よう
やくここに来て感慨深いものを感じたのであろう。

その先の清水地区は、高野山領最初の宿場町として賑わいを見せたとこ
ろで、今でも街道に沿った狭い通りには、軒の低い重厚な瓦屋根の家屋が
その面影を今に残している。

その宿場の東端に「西行庵」と並んで「地蔵堂」が建っている。
これは「高野街道の六地蔵」と言い、参詣の旅人の安全を祈念して街道筋
六か所に置かれたものの一つで、この地が第一の地蔵と呼ばれている。

第二の地蔵は、旧道が国道370号に合流するあたりに立ち、そこを過ぎれ
ば学文路はすぐそこだ。(続)
ホームページ 表紙写真更新しました。

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しばらく行くと道端の「三軒茶屋大常夜灯籠」が目についた。

高野山への参詣道は、古くは慈尊院から町石道を登るのが一般的であっ
たと言う。しかし室町時代後期頃からは、御幸辻から南下し、橋本の地で紀
ノ川を渡り、学文路から登る不動坂道が距離も短いことからこちらが主に用
いられることとなり、天正年間にこの場所に地名の由来になった長さ130m
の木橋が架けられた。

しかしその橋は3年後の増水であえなく流失、その後は舟による「無銭横
渡」が行われたといい、ここがその南岸の渡場跡らしい。

この灯籠には「高野山興山寺領」との銘が刻まれていることから、この川
を超えると当時は高野山領に足を踏み入れたことになる。
京・大阪・堺などから高野山参詣に向け、歩き続けて来た昔の旅人は、よう
やくここに来て感慨深いものを感じたのであろう。

その先の清水地区は、高野山領最初の宿場町として賑わいを見せたとこ
ろで、今でも街道に沿った狭い通りには、軒の低い重厚な瓦屋根の家屋が
その面影を今に残している。

その宿場の東端に「西行庵」と並んで「地蔵堂」が建っている。
これは「高野街道の六地蔵」と言い、参詣の旅人の安全を祈念して街道筋
六か所に置かれたものの一つで、この地が第一の地蔵と呼ばれている。

第二の地蔵は、旧道が国道370号に合流するあたりに立ち、そこを過ぎれ
ば学文路はすぐそこだ。(続)
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