東海道は新しく出来た水口の城下を避け、お城の北側を、右折、左折、
左折、右折、左折、右折と鍵の手に目まぐるしく曲がる道に入る。
三河国の岡崎城下ほどではないが、結構な数の曲がり角である。
これらの町並に三筋町の様な賑わいは見られないが、その道幅は往時の
ままのようで、武家地に近い地らしく、家並みにも何とはない落ち着き
と懐かしさが感じられる。
小坂町の曲がり角に、江戸時代から知られた大石が置かれている。
力石とも水口石とも呼ばれる由緒ある石らしいが、謂れを知らなければ
ただの石にしか見えない。説明によると、江戸の絵師・国芳により錦絵
の題材にも取り上げられたらしい。
その先、北邸町には、下級武士達が住んだ百軒長屋跡が有った。
お城の武家地にあり、百軒(約180m)の棟割長屋には、下級武士達が
住んでいたという。
棟割長屋と言うのは、複数の住戸が水平方向に連なり、壁を共有する
物件で、それぞれの住戸は独立している物を言う。
共同住宅の様に、共用部分が無いのが長屋の特長である。
城の防御の役割を担う建物とされ、その為東海道に面した北側には、
出入り口は無く、往来に向かっては、与力窓と呼ばれる小さな高窓が
設けられているだけである。
街道を往来する物売りとは、紐を付けた笊により、この窓越しに買い
物をしていたという。
こう言ったシーンは、様々な時代小説でも描かれ、よく登場する。
下級武士であっても武士は武士、身分制度の厳しい時代にあって、世間
との気脈を通じる、文字通りの窓口であったようだ。
明治初期まで21軒が残されていたたらしいが、全て取り壊されている。(続)
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