淀は城下町であり川舟の寄港地としても栄え、元和5(1619)年に
は淀宿が成立している。ただ宿場町としての規模は左程のものはなく、
江戸期の家の数800軒余、人口2800人余りで旅籠の数も16軒と少なく、
本陣・脇本陣は置かれていなかった。

明治を向かえると人口は7.3万人余りで、町の規模も江戸期に比べる
と拡大している。美豆村と淀村を編入した淀町が京都市に編入されるの
は、昭和32(1957)年のことだ。
納所村は、淀町よりも早い昭和6(1931)年に編入されている。

納所は昔から淀の中心的な所で、町中には「納所村道路元標」が有る。
河川の付け替えで、遺構が殆ど失われたとはいえ、桂川河畔には、朝鮮
通信使が上陸した船着き場の跡「唐人雁木旧跡」の碑、更に戊辰戦争に
関連する記念碑等も多い。

駅前の府道124号に面した場所にも、「淀小橋旧址」碑がある。
嘗てここには淀城下と城外の納所を繫ぐ、長さ七一間(129m)、幅は
四間(約7.3m)の橋が架かっていたらしいが、現在では埋め立てられ
橋は無く、川も流れていない。

北東面に「東南 淀川渡場径」と彫られ下に小さい字で「 渡舟場十丁
一口村十四丁 中島十丁 相島十八丁 森十九丁 野村廿三丁坊池廿丁 巨
椋湖十五丁」とある。
更に南東面には「十一面観世音尊像 安養寺」と彫られ、小さい字で
「弥陀次郎開基 一口村 是南十五丁」とある。

昭和3年に遺志で建立されたと言う道標が、京阪本線の高架下に立
っていた。
東海道五十七次(京街道)の宿場町でもある淀の城下町は、京・羅
城門から南下し桂川左岸を来る鳥羽街道の終点でもある。
この道はその先高野街道から高野山へと続いている。(続)


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は淀宿が成立している。ただ宿場町としての規模は左程のものはなく、
江戸期の家の数800軒余、人口2800人余りで旅籠の数も16軒と少なく、
本陣・脇本陣は置かれていなかった。

明治を向かえると人口は7.3万人余りで、町の規模も江戸期に比べる
と拡大している。美豆村と淀村を編入した淀町が京都市に編入されるの
は、昭和32(1957)年のことだ。
納所村は、淀町よりも早い昭和6(1931)年に編入されている。

納所は昔から淀の中心的な所で、町中には「納所村道路元標」が有る。
河川の付け替えで、遺構が殆ど失われたとはいえ、桂川河畔には、朝鮮
通信使が上陸した船着き場の跡「唐人雁木旧跡」の碑、更に戊辰戦争に
関連する記念碑等も多い。

駅前の府道124号に面した場所にも、「淀小橋旧址」碑がある。
嘗てここには淀城下と城外の納所を繫ぐ、長さ七一間(129m)、幅は
四間(約7.3m)の橋が架かっていたらしいが、現在では埋め立てられ
橋は無く、川も流れていない。

北東面に「東南 淀川渡場径」と彫られ下に小さい字で「 渡舟場十丁
一口村十四丁 中島十丁 相島十八丁 森十九丁 野村廿三丁坊池廿丁 巨
椋湖十五丁」とある。
更に南東面には「十一面観世音尊像 安養寺」と彫られ、小さい字で
「弥陀次郎開基 一口村 是南十五丁」とある。

昭和3年に遺志で建立されたと言う道標が、京阪本線の高架下に立
っていた。
東海道五十七次(京街道)の宿場町でもある淀の城下町は、京・羅
城門から南下し桂川左岸を来る鳥羽街道の終点でもある。
この道はその先高野街道から高野山へと続いている。(続)


