
佐々木盛綱は、源平藤戸合戦の折、この辺りがまだ海であったころ海
峡の浅瀬を騎馬で渡り、その先陣の功を立てた。
平家の滅亡後それにより、鎌倉幕府から恩賞として備前国・児島を受領
して地頭職に就いた。

着任した盛綱は、土地の有力者などに服従を求め、誓紙を差し出させ
たと伝えられている。
知行地を得た一族は、その後もこの児島に土着し権勢を奮った。
結果備前地域がその後も、東国武士との関わりが深く残るようになる。

盛綱はまず、合戦で荒廃した地元の「藤戸寺」の修復に着手した。
この寺は、天平年間に行基菩薩が、仏法を広めるため児島を巡行した際、
藤戸の海より浮かび出た千手観音を本尊として奉安したのが始まりだ。
正式には、「補陀落山千手院藤戸寺」という高野山真言宗の古刹である。

さらに盛綱は、源平合戦の両軍の戦死者、自身が殺害した哀れな漁師
たちの為に、供養の大法要を営んだとされている。
境内の本堂北側には、盛綱の子信綱が供養のために建立したとされる
「五重の石塔」が残されている。
高さ355㎝もある花崗岩製で、鎌倉時代中期頃の作とされ、県の重要文化
財に指定されている。

寺では弘法大師の命日である毎月21日には縁日が開催され、特に5月に
は盛綱公や、両軍の戦没者、漁夫の供養も併せて行われるという。
又「平家物語」の一説「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅
双樹の花の色・・・」で知られる沙羅の花(夏椿)が咲く事でも有名だ。
例年その夏至の頃には「観る会」が開かれるという。(続)


