
褒美と引き換えに、藤戸海峡の浅瀬の存在を地元の漁師から聞き出し
たのは、源氏方の武将・佐々木盛綱であった。
浦の漁師が、深いところはあるが、平家の陣地まで浅瀬で渡れるルート
の存在を教えたのだ。
ところが盛綱は、この事が敵方に漏れるのを恐れ、あろうことか口封じ
の為この漁師を殺害してしまう。

当時の武士は、戦で手柄を立て、功名を成し、恩賞として土地を得る
のが目的である。その為には何としても先陣を切りたい。
こうした事から、血を血で洗う戦場での盛綱の立場なら、敵方や名も無
い民を欺すことなど不名誉とはされていなかったのである。

亡き者にされた漁師には、年老いた母がいた。
息子の無残な最後を知らされた老母は、嘆き悲しみ、「佐々木憎けりゃ
笹まで憎し」と、付近の山の笹を全部抜いてしまった。
以後その山には笹が生えなくなってしまったと言う。(笹無山伝説)

盛綱は平家の滅亡後、鎌倉幕府からその恩賞として備前の国・児島の
地頭職に就いた。
すると任地入りした盛綱に、一人の老婆が我が子殺しを激しく追及する。
白を切る盛綱も、執拗な追求とその哀れな姿に心を打たれ、罪を認め供
養の管弦講を約束する。
恨みを持って死んでいった漁師も、この供養で心が晴れ、ようやくに
成仏できたという。
最もこの老母の存在は史実ではなく、後に演じられた謡曲の創作らしい。

謡曲「藤戸」は、源平藤戸合戦の先陣争いをした盛綱や、殺された若
い漁師(浦の男)の恨みを題材にして、室町時代に創られたそうだ。
若き命を奪われた青年の悲しみ、老母の怒り、親子の情愛を描くことで、
残忍な武士の仕打ちを暴き出し、その理不尽と人命の重さを訴えている。(続)


