西から見た石舞台古墳
箸墓古墳から国道169号を南下、阿部交差点を直進して県道15号を道なりに走って、明日香村へ入りました。
古墳時代(西暦200年中期~600年末の間)、この奈良盆地の飛鳥の地で、古代中国から「倭国」と呼ばれていた八嶋の国々を、「やまと」という民俗的アイデンティティを拠り所にして国際社会(といっても中国大陸・朝鮮半島あたり)に認められる「国家」としての体制を作り始めた蘇我馬子や厩戸皇子(うまやどのみこ)が政(まつりごと)をしていました。その馬子の墓だと言われている石舞台古墳へ向かいました。 4つある国営飛鳥歴史公園はそれぞれ無料駐車場を完備しています。そのひとつである石舞台にも入口近くに駐車場があり、駐車台数が少ないため駐車できるか不安でしたが、幸運にも空きがありました!駐車場側に公園の休憩所兼売店がありました。石舞台の入口は道路を挟んだ反対側にあり、入場料250円。芝生広場のような所の真ん中に、写真で見たことのある石舞台が見えました。 入口から古墳側へ階段を渡り、石の反対側に回ると内部に入れるようになっていました。内部は、男性の身長の2倍より高い天井で、かなり大きな玄室です。正面側から周濠を渡ると、古い説明板がありました。そして、近くに石室のレプリカがひっそりと置いてありました。 石舞台古墳が蘇我馬子の墓だと言われる理由は、この周辺が「島庄(しまのしょう)」という地区で、『日本書紀』の推古天皇の章に「飛鳥川の辺りに家を居した。その庭の中に小さな池を掘り、池の中に小さな嶋を築いた。それで時の人は嶋大臣(しまのおおおみ)といった。」と記載されているのと、近年の発掘調査で馬子の邸宅と人工池・勾(まがり)の池の跡が発見され、その位置関係から馬子邸宅説の裏付けが強固になったからです。2014年には、石舞台古墳の南側の山斜面にある都塚古墳が、ピラミッド形大型方墳だったという発表があり、馬子の父・蘇我稲目の墓の可能性が濃くなりました。
石舞台から飛鳥川までは少し距離があるので、馬子邸の敷地は、現在有料駐車場やお土産店のある一帯以上の広さだと推測されています。日本史中では悪者扱いされている馬子ですが、先入観を捨てて『日本書紀』を読んでみたら、そんなに悪者だとは感じませんでした。むしろ敏腕大臣の姿がイメージされて、飛鳥に来たのも、蘇我氏の本拠地を直に見てみたかったというのが強い希望でした。都塚古墳は公開された後すぐ埋め戻されて、今は段々畑の中にある塚になっています。宿へ向かう道路から、ツツジの花が咲いている都塚古墳の姿が見えました。宿は、国営公園内にある祝戸荘(いわいどそう)。
蘇我馬子と厩戸皇子、推古天皇が夢にでてこないかなぁ。
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