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visiting a grave 2

2010-12-16 | Edo
***墓参り~一九編~***
 私は馬琴ファンではないですが、蔦重やその周辺について書いてある本の参考文献を見ると、必ず馬琴の『物之本江戸作者部類』『伊波伝毛乃記(いわでものき)』が引用されているので、自然と馬琴ともお近づきになってしまいました。
 でも、元々私が18~19世紀江戸にトリップする動機は十返舎一九に会いたかったからなのです。だから墓参りも一九先輩が本命でした。墓や墓碑は写真で見ているのですが、やはり実際に行って墓前に手を合わせたかったので勝どき4-12-9にある東陽院へ出向きました。地下鉄駅から歩くこと数分。お寺を見つけるよりお墓の方が先に見つかりました。なんと墓と墓碑はお寺の外、大通りの歩道に面しているのです。
     右手前が墓碑、後方が墓石
墓碑は写真で見たものと同じでしたが、墓石がどうも綺麗すぎるなぁと思って墓碑銘を見ようと側面を見ましたが、山茶花に遮られてよく読めませんでした。持っている本に載っている一九の墓石は正面は何が書いてあるかわからなくなっていて、基礎の石の正面には○の中に貞(本名:重田貞一さだかつ)の字を入れた熊手形の判が刻まれていて、沢山の卒塔婆に囲まれていました。東陽院は浅草にあったのが現在の地に移転しているので、墓石は新しくしたのかもしれません。何にしても一九先輩のお墓は文化財として誰にでも見える場所に安置されています。
          
 山茶花がとても美しく、これなら一九先輩も喜んでいるだろうな、と私は感激したのであります。馬琴の墓と比べると明るくて華やかな印象で、生前の人間像が偲ばれるようなお墓だと感じました。石の上に一円玉が数枚置いてあり、今も一九は愛されてるんだと思うと、とても嬉しくなりました。帰宅してから、一円玉を9枚置いてくればよかったと洒落のきかない私は後悔・・・。
 私を江戸時代のおもしろ人たちに引き会わせてくれた一九先輩ありがとう。

 サントリー美術館の蔦屋重三郎展には、山東京伝作/十返舎一九画の草双紙がありました。
     『初役金烏帽子魚』1794年蔦屋版 
 1794年は、蔦重が写楽作品を刊行した年で、一九はこの年の秋に蔦屋に居候しました。浮世絵の版画を摺る紙にドウサを引く仕事をしながら戯作していたそうです。
 彼が画をどこで誰から会得したのかはわかっていませんが、素人にしては相当上手いです。『東海道中膝栗毛』の初編を蔦重は売れないと判断して出版しなかった、といわれていますが(その根拠はどこからきているのかは不明。もし馬琴の記した物だったら真実でない可能性大。)私はそれは初代蔦重じゃなかったんじゃないかと思います。もし蔦重が健康で経営が順調だったら、一も二もなく出版していたに違いないと私は信じています。
 一九が最後に住んでいた家がどこであったのか、火事で焼けたりしているので、深川佐賀町から通油町へ戻ってきてたのかはっきりしたことは不明です。蔦重の墓は、倉本初夫氏の著書によれば、浅草の正法寺にあったのですが関東大震災で焼け崩れた為処分されてしまったそうです。墓には大田南畝撰の墓碑銘が書かれてあったそうです。そして崩れた墓石の碑文の部分だけを何人かが拾い集めて持ち去った、と書いてあります。ということは、何処かに残っている可能性はあります。倉本氏は第2次大戦前に訪れた時は、宿屋飯盛(石川雅望)撰の蔦重の死を悼んだ碑文を刻んだ石碑を見たそうですが、それも東京空襲で跡形もなくなってしまったということです。

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