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Expressing My Inspirations

invitation to the books of the edo period 1

2012-07-07 | bookshelf
 近年、学校の教科書に書いてあるような「勝者からみた歴史」観を見直すような動きから、興味深い歴史番組がテレビ放映されています。
 明治以降の研究者が作り上げてきた既存の見解を、もう一度しっかり研究し直して整理する動きが書籍方面にもあり、この2・3年の間に、江戸草双紙についてのガイドブック的な書籍が何冊も刊行されています。最近の書籍は、一般読者が手に取りやすいように、装丁が凝っていて、挿絵も結構載っています。
 でも、近世文学専攻の学生ならともかく、私のように単なる好奇心で読んでいる読者にとって、楽しく江戸草双紙を読むには、第一に「想い入れ」が必要です。最初から『東海道中膝栗毛』を翻刻版で読もうとしても、面白さが半分くらいも伝わらないと思いますし、1冊目に仇討ちものの読本(よみほん)や色恋沙汰の人情本を選んでしまったら、ちょっと苦しいかと思います。
 なぜなら、草双紙は現代小説とは文章構成から存在意義まで違っているからです。最初の出会いというのは大事です。その出会いをよくするために絶好な本がありました。
山東京伝『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』の挿絵のパロディ。
主人公・艶二郎の顔が、著者・井上ひさし氏の似顔絵に挿げ替えてある。

 現代の戯作者・故井上ひさし氏が1979年出版した『戯作者銘々伝』。山東京伝、恋川春町など12名の戯作者の名前をタイトルに冠した、12の短編が載っています。戯作者を知らなくてもノープロブレム。まるでお芝居を見ているかのような気持ちで、この人は一体誰なんだろう、どういう関係の人なんだろう、どうなるんだろう、と好奇心をぐいぐい引っ張られ、読み終えた頃には江戸人になっています。タイトルになっている戯作者と関係ある人たちや当時の社会的なことも垣間見れます。余りに見てきたような風なので、事実かと間違われそうですが、事実に基づいた創作や作者の個人的見解も交じっているので、興味を持った登場人物は、個別に文献で調べた方がよいでしょう。この本と同じ趣旨で書かれた中編『手鎖心中』(『江戸生艶気樺焼』のパロディに戯作者になる前の大物戯作者が登場)もおすすめです。
 これが気に入ったなら、図書館で『日本古典文学全集(頭に『新編』があるかも)黄表紙・川柳・狂歌』という本の黄表紙を読んでみるのがよいと思います。確か挿絵も掲載されています。(黄表紙で挿絵を掲載しないものは、現代の漫画を文字だけにしたのと同じです)元祖黄表紙『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』恋川春町作画、山東京伝大々ヒット作『江戸生艶気樺焼』、江戸の近未来小説など爆笑作品満載。そうそう、『戯作者銘々伝』の恋川春町の物語は感動ものです。
 more~!と感じたら、棚橋正博 校注編『江戸戯作草紙』、ちょっと稚拙かもしれませんが一九先輩の妖怪馬鹿噺と有名浮世絵師の挿絵が楽しい『江戸化物草紙』アダム・カバット著などいかがでしょうか。
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2012-06-26 | bookshelf

 幕臣としての職務をソツなくこなしながら、大田南畝は趣味として文筆を続けていました。2度の遠い地方出向を終え江戸勤務に落ち着くかと思いきや、1808年文化5年今度は水害復旧工事のため玉川上流へ派遣されました。この年、関東地方は大雨で関東一帯が洪水に見舞われたそうです。60歳の南畝は、100日余りの野外勤務をこなしました。
 還暦を迎えた老人にそんな任務が与えられたのは、上司や同僚の嫌がらせと勘繰る研究者もいれば、大坂や長崎での有能さが認められての命だったと解釈する研究者もいるそうです。時代は違っても、組織の中にはそういった人間関係の軋轢やしがらみが存在するものです。特に天下泰平の江戸後期は平和ボケした武士が目立ったようで、「鳥なき里のコウモリ」的な役人が多かったと想像できます。
 赴任していたのは冬。元日を休んだだけで2日から仕事。上司は時々現場へ見回りに来るだけ。そんな状況でも、南畝は多摩丘陵地帯の眺めを楽しむことを忘れない。この人は、嫌な現実からの逃避手段を心得ています。与えられた限られた情況の中で、いかに楽しみを見出すか、という術を。だから、職場で嫌がらせがあっても、世の中がなんとなく不穏でも、飄々としていられたんじゃないかと思います。
 御徒組で32年、勘定所で17年も働き続けていたのは、一重に息子に家督を継がせるためでした。息子についてはどうもはっきりした記述がされていませんが、『蜀山残雨』と伝記を合わせると、精神的な病気が内在していたようです。南畝が64歳の時、息子が支配勘定見習いとして初出仕しました。息子は33歳で既に妻子持ち。ようやく肩の荷が下りた、という感じだったでしょうか。文化年間に入ると、山東京伝、曲亭馬琴、十返舎一九、式亭三馬といった戯作者の合巻、人情本、北斎や歌川派の浮世絵といった江戸文芸が全盛期を迎え、南畝翁は蜀山人として文化人の間で持て囃されました。
 能のない連中がいる職場では浮いていたかもしれない南畝も、文化人の中では慕われ敬われていました。なぜか?それは馬琴のように他人をけなしたり自画自賛をしなかったのと、何よりユーモアのセンスを持っていたからではないでしょうか。センスは努力して身につくものではないので、馬琴には気の毒ですが、狂歌で名声を得たのも、幅広い人脈を持っているのも、ユーモアのある性格だったからではないかと思います。南畝は、仲違いをしている知人たちの仲介役をして何組か仲直りさせているそうです。南畝のことなので、真面目一辺倒ではなく、滑稽な洒落でも言ってお互いを笑わせたんじゃないかと想像します。
 「狂歌」は人を笑わせ心を豊かにするものです。『膝栗毛』で弥次喜多が道中で詠む狂歌は、しくじりをした場の雰囲気をなごませたり、喧嘩を鎮めたりする効果を発揮します。一九と南畝には、こんな逸話が残っています。― 一九が初めて南畝宅を訪問した際、長いこと待たされ一向に現れる気配がないので、「失礼だ」と腹を立てて帰ってしまった。その後、ばったり会った南畝から、一九が来るというから酒を飲んで語り明かそうと思ったら、酒を買うお金がなかったので、庭にあった桐材を売りに行っていたのに、帰宅したらいなくなっていて、それでも失礼か?と言われ、二の句が継げなかった。(漢学者・劇作家:依田学海 著)― 真偽のほどはさて置き、南畝が言った理由が嘘であっても、この頓智のきいた弁明は、同じく頓智好きの一九の憤慨を吹き飛ばしてしまったと思います。
 太平の時代といえども、噴火・地震・大火・大雨洪水、飢饉、コレラ、なんとなく感じる外国からの脅威がありました。文化文政期の滑稽は、そんな国民の潜在的な不安から求められた笑いだったのではないでしょうか。
 蜀山人自身も、内に秘めた不安から解き放たれたいと感じていたのかもしれません。期待をかけていた息子が乱心して職を失い、南畝は心の病を治す医師を探したりもしていたらしいです。また、可愛がっていた孫(男子)も読書もしない怠惰な子だと、心配は尽きなかったようです。

 75歳になった南畝は、相変わらず勘定所勤務を続けていました。4月、市村座に芝居を見に行って、贔屓にしている三世尾上菊五郎に狂歌を書いて与えたりして楽しんだ翌日、少し気分が悪くなるも、夕食にヒラメの茶漬を食べて狂詩を一首作って寝ました。翌朝家族が起こしにいくと、南畝は口をあけて鼾をかいて眠ったままで、意識が戻ることなく息を引き取った、ということです。
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2012-06-25 | bookshelf
1784年天明4年刊行 恋川春町 作・画 『吉原大通会』より
江戸狂歌大流行に取材した黄表紙。
高名狂歌師の中に、四方赤良(南畝)、平秩東作、紀 定丸(南畝の甥)、
筆記用具を出す蔦屋重三郎が描かれている。

 1787年天明7年、田沼意次が失脚し松平定信が老中になると、倹約令が発令されるわ勘定組頭だった土山宗次郎が処刑されるわで、それまでの贅沢三昧の生活が一変させられました。公金横領罪で斬首された土山氏の取り巻きだった南畝先生は、全くお咎めなしだった理由は不明です。政治に影響がない役人だったからか(土山氏は官僚、南畝は一般公務員)、文学好きの松平定信の計らいがあったからでしょうか。悪事がバレたと知った土山氏の逃亡を手助けした罪で、平秩東作は急度叱り(きっとしかり:奉行所or代官所に呼び出し、土地の顔役たちの面前で犯罪の不心得を聞かせ、当人の名誉を傷つける、庶民のみに適用された刑。)を下され2年後に死にました。
 南畝は、狂歌師 四方赤良をやめ、退屈な本業に戻ります。87年は米価高騰で天明の打ちこわしが起った年です。翌年、田沼意次(70歳)が亡くなりました。しかし、南畝はラッキーでした。1789年寛政1年、棄損令が施行され、旗本・御家人の借金がチャラになったのです!もちろん札差高利貸は激怒でしたが、成す術もなし。
 1793年に、新築した一戸建ての離れ「巴人亭はじんてい」に住まわせていた愛妾・お賤が亡くなります。悲しみに暮れる南畝でしたが、翌年第2回学問吟味(人材登用試験)に御家人部門でトップ合格しました。(旗本部門トップは遠山金四郎<父>)92年の第1回は不合格だったので面目挽回。46歳にしてようやく出世の道が開けたのです。といってもその後数年は職務に変化はなかったようです。1796年ようやく支配勘定(勘定奉行の下役人)に取り立てられました。が、そこでの仕事も、重要とはいえない退屈なものでした。1798年、妻が先立ちました。(1797年には蔦重が病死)
 1801年享和元年、53歳の南畝は大坂銅座に1年間出向します。公務の旅行は待遇がよく、お供や人足を連れて道中駕籠に乗って東海道を西へ向かったそうです。一茶や芭蕉はたまた子規の句碑はよく見かけますが、東海道にも大田南畝の句碑があります(どこか忘れましたが)。大坂での仕事は午前8時から午後2時まで勤務すれば、後は自由時間だったそうです。南畝は仕事が速かったのでさっさと済ませて余暇を楽しんだようです。無事に大坂勤務を終えた南畝は、帰路は中山道を通り、途中上田秋成を訪問しています。
 江戸へ戻ってから2年後1804年文化元年、今度は長崎奉行所に赴任が決まりました。当時長崎奉行所は役得が多く、役人達が出向を希望した場所だったそうです。酷い船酔いで長崎に着いた南畝は、3週間出勤できなかったということです。
 大坂と違って長崎は激務で、ちょうどロシア使レザノフが通商条約を結びに来ていたこともあって、奉行所はフル回転でした。そして南畝もレザノフと会って握手をし、コーヒーもご馳走になっています。それに日露会談に全て列座していました。しかし、だからといって南畝がロシア外交について深く考えた記録はないそうです。立場上、文字にできなかったのかもしれませんが。
 幕府がぐずぐずして返事を延ばし延ばしして、やっと派遣してきた特使は遠山金四郎<父>でした。彼は小姓組~御徒頭~目付(役人を監察し不正を摘発する職)に出世していました。1805年、南畝は陸路で江戸へ帰りました。
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2012-06-23 | bookshelf
蜀山人肖像 画:鳥文斎栄之 1814年文化11年
蜀山人と号した65歳の南畝翁。まだ現役サラリーマン

 南畝の狂詩は中国の古典漢詩のパロディで、センスのよいユーモアが当時の文壇にウケて一躍人気作家になりました。江戸時代は詩人とか学者とか作家とか評論家などは職業ではなかったので、執筆してもそれで身を立てるという概念はありませんでした。武士出身の文人はもちろん、町人出身の文人でも同じでした。一世を風靡した山東京伝も、戯作は本職(煙草入れ&薬種屋)の片手間サイドビジネス程度にやるものだという主義でした。
 20代には山手馬鹿人(やまてのばかひと)などのペンネームで洒落本を発表。1772年に田沼意次が老中になり緩和政策がとられるようになると、江戸庶民文化が一気に開花し、閑を持て余した幕臣や金を持て余した商人が「狂歌」という遊びで盛り上がり、南畝は狂歌師・四方赤良としてその中心にいました。30歳の時には、高田馬場の茶屋で「月の宴」と銘打って5夜連続狂歌会を主催したり、34歳の時は吉原大門口の蔦屋重三郎宅で開かれた「耕書堂夜会」なるふぐ汁の会に出席したり、とかなり豪奢に遊んでいます。(南畝は蔦重の1歳上。耕書堂が通油町へ移転する以前から交流があったことが判りました)
 特に、20歳の山東京伝が書いた『御存知商売物』を絶賛して京伝が有名になったことで知られる黄表紙評判記『岡目八目』を出版した1782年天明2年は、南畝にとって人生最大のバブル期だったようです。34歳の南畝は、勘定組頭・土山宗次郎(?-1787年横領罪で斬首)と親しく交際し豪遊していたことが、1949年昭和24年森銑三氏の研究によって明らかにされました。豪遊の実態は、南畝の日記『三春行楽記』に赤裸々に記してあります。当時土山氏も狂歌をし、彼のサロンには様々な身分階級の人物が出入りしていたそうなので、南畝が特別だった訳ではないでしょう。しかし、南畝が土山氏のお気に入りだったことは明白で、翌1783年出版した『万載狂歌集』(四方赤良、朱楽菅江<あけらかんこう>共編)にも土山氏の歌が数首入っています。
 悪の世界(公金横領した金での豪遊)の恩恵を受けていた事実を、蜀山人を崇拝する研究者は認めたくなかったそうです。でも、『三春行楽記』がなくても、貧しい下級武士の若造が洒落本(遊廓の実態に取材した戯作)のヒット作を何冊も執筆できた事実から考えれば、安易に想像がつきます。南畝も人の子、清廉潔白ではなかったわけです。
 田沼意次が実権を握っていた期間、1780年江戸は大雨続きで洪水だったし、日本近世史上最大といわれる天明の大飢饉(1783年~1788年)がありました。しかし、南畝には苦ではなかったようです。どうもこの人は政治や社会に余り関心がなかったんじゃないかと思います。1771年明和8年23歳の時に結婚した6歳年下の妻と息子がいるにも係わらず、37歳で吉原の遊女・三保崎を身請けして、自宅の敷地内に離れを作って住まわせたという無神経な男でもあります。そんなお金も土山氏から融通してもらったのかもしれません。でもそれがどうしたっていうんでしょうか。死んでしまった人の道徳観を非難しても意味がないと思います。私はありのままの南畝を受容れましょう。
 そして、バブルは弾けてしまうものです。田沼意次が罷免され土山氏が斬首に処せられ、松平定信が老中になった1787年、四方赤良という狂歌師は消えました。
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2012-06-22 | bookshelf
大田南畝38歳。狂歌をひねっている最中。画:北尾政演

狂歌師として名声を得るも、恩恵を賜っていた田沼政権崩壊によって
この年に公けでの狂歌の筆を折ることに。

 蜀山人こと大田南畝は通称大田直次郎、名を覃(タンorふかし)、江戸牛込御徒町の組屋敷(現・新宿区北町・中町・南町地区)に幕府の徒士衆(かちしゅう)の子として1749年(1823年75歳没)に誕生しました。貧しくはありませんが、遊べるほど裕福な家柄でもありません。利発な南畝少年は、漢学・漢詩に長け、特に詩作は秀でていたそうです。
 幕府直参の武士の身分は、御目見以上(旗本)と御目見以下(御家人)に大別され、御目見以下(禄高百石or百俵以下)は譜代席と抱入(かかえいれ)席に細分され、譜代席は職を世襲できますが、抱入は一代毎に召抱え手続きをしなくてはならず、大田家は70俵五人扶持だったので、南畝少年は父親在勤中の16歳に御徒抱入になりました。この時点では、南畝の出世の上限は御目見以上譜代席まででした。
 徒士(かち)とは、もともと戦場を徒歩で戦う兵卒だったので、武士階級中でも馬に乗れない下級身分。南畝の時代には、将軍が外出する時に道筋の先払いをしたりする、普段は江戸城内の玄関の中にある遠侍(とおざむらい)の間の奥に詰めて、両拳を膝の上に置いて正座をして上司(老中・若年寄など)が玄関を通過する時は平伏する、あるいは勘定所で衛視をしたり、上司の警備をしたりする、といった勤務を順番に勤めていたそうです。つまりシフト制勤務ですが、このいかにも退屈そうな職務内容は太平の世ならではで、幕府直参御家人(今でいう一般公務員的身分)は仕事がなく1ヵ月30日中約6日(!)出勤。内勤以外の仕事は先に書いたようなものです。徒仕衆の俸給は70俵5人扶持と決まっていて、これを全て米に換算すると年間支給額は95俵2斗5升、変動米相場だったので換金額は一定しないのですが、南畝16歳の1765年は徒士衆の現金収入は年間40両未満だったそうです。しかし、当時の武家の多くは先代からの借金を持っていて、大田家も南畝が家督を継いだ時借金があったそうで、全額を受け取ることはできなかったようです。
 金はないけど余暇はある―ということで、多くの幕臣は浮世絵を描いたり戯作したり小遣い稼ぎをしてました。戯作で有名なのは朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ。秋田佐竹藩士。狂名:手柄岡持。南畝より14歳年上)、恋川春町(こいかわはるまち。黄表紙の祖。浮世絵も描く。駿河小島藩士。南畝より5歳年上)などですが、南畝はまだ子供なので国学者や儒学者の門人になって勉強していました。
 同門に23歳年上の平秩東作(へづつとうさく通称:稲毛屋金右衛門。内藤新宿の煙草屋。学者名:立松東蒙<とうもう>。平賀源内をモデルとした戯作本を書いたり、田沼時代の勘定組頭土山宗次郎に命ぜられ蝦夷地調査へ行った時の事を綴った『東遊記』を著した)がいたことで、南畝少年の退屈な人生に変化が生じることに。
 1766年、18歳の南畝は平秩東作に連れられて、初めて平賀源内(1728-1780年。エレキテルの復元で有名。南畝より21歳年上)の家を訪れたのです。39歳の源内はちょうど人生の絶頂期。東作は源内のお仲間で、南畝の才能を認めて源内に引き合わせたのでした。南畝は源内の家に『寝惚先生文集』(狂詩集)の草稿などを持って行って見てもらったそうです。自作の詩などを褒めてもらったことで南畝は自信を得て、出版することにします。板元・甲椒堂須原屋市兵衛に取り次いで刊行させた人物は、平秩東作。
 19歳の南畝(狂名:寝惚先生)は狂詩狂文集『寝惚先生文集初編』で文壇にデビューしました。その13年後1780年、平賀源内は獄死します。
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2012-06-18 | bookshelf
『蜀山残雨 大田南畝と江戸文化』野口武彦著 2003年新潮社刊

表紙絵:蜀山人肖像 画:文宝亭亀屋久右衛門(二世蜀山人)
蜀山人公認代筆者で本業茶問屋が破綻するほど南畝に心酔した


 十返舎一九先輩の紀行文の翻刻版(現代仮名に変換したもの)が簡単に手に入らないので、蔦屋重三郎とも縁が深い大田南畝ものを選んで読んでいます。
 以前、蔦重を調べていた時は、四方赤良(よものあから:狂歌名)で登場したので本名は何だろう?と調べたら、現代は大田南畝(おおたなんぽ)で通っているようです。それで私は大田南畝と言っているのですが、書籍関係を調べているとタイトルが大田南畝より「蜀山人(しょくさんじん)」という呼び名が多いことに気付きました。一昔前は「大田蜀山人」などという奇妙な呼び方が当たり前だったみたいで、知識人・文人あるいは東京生まれの人々は子供でも蜀山人の名は知っていたくらい有名な人だったようです。
 それで、蜀山人関係のものを検索していくと出るわ出るわ。昭和初期以前生まれの人の崇拝者や研究者の多いことといったら、そんなに凄い人なのか、と思わせるものがあります。でも、現代ではほぼ人気はゼロに近いんではないでしょうか。図書館在庫検索では閉架蔵書になっているのが現実です。日の目を見てるのは日本古典文学全集に収録されている狂歌や狂詩、一部の紀行文くらい。しかも狂歌は四方赤良、狂詩は寝惚先生と表記してあるので私のように詳しくない人は同一人物だとわかりません。
四方赤良(南畝)37歳。吉原の新造・三保崎を身請けした頃 
画:北尾政演(山東京伝)

 江戸後期、明和~天明~寛政~文化期に各雅号でブイブイ言わせていた大田南畝先生。この人も詩作などは趣味で本業は幕臣だというので、どんなにか名門武家の出身でお堅い学者かと想像してました。そこで、伝記を読んでみたところ、南畝先生はものすご~く筆まめで、少年期から日記みたいなものや覚書、出張旅行の道中記や単身赴任中に送った倅への手紙とか、プライベートな記録を沢山遺しているので、当時のお侍さんのリアルライフを知ることが出来ました。いや~いつの時代もサラリーマンはツライですね。南畝先生が狂歌なんかに走るのわかります。彼は名門でも金持ちでも学者でもなく、江戸時代の下級武士の一人でした。もう少し詳しく知りたくて検索して選んで読んだ『蜀山残雨』は、ある幕臣(公務員)南畝の悲喜こもごも人生が書かれた本で、当時の幕臣の仕事や私生活が当事者レベルで理解できました。

これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行なわれず、一両年にて止ム
↑これは写楽についての有名な説明文ですが、これを書いた人こそが大田南畝その人で、『浮世絵類考』の元となった『浮世絵考証』の作者でした。
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the works of the Absolute

2012-06-01 | bookshelf
『絶対製造工場』カレル・チャペック著 翻訳:飯島周 2010年刊行
原題『Tovarna na Absolutno』チェコスロバキア1922年出版

 ゲーテの人工生命体からカレル・チャペックへ移行したのは、当然の流れでした。カフカやシュヴァンクマイエルと同じチェコ人でありながら、チャペック作品を読んだのはこれが初めて。きっかけは『絶対製造工場』という翻訳タイトル。日本人はタイトル付けるの上手いですよね。でもこの日本語タイトル、最初に翻訳出版された時は『絶対子工場』(1990年刊行、翻訳:金森誠也)で、何やら意味不明…。どうやら、内容の解釈の違いにありそうです。
 チャペック氏は「robota」(チェコ語)という言葉を物語の中で使い、それが今日のロボットを意味する言葉の源語になった、ということを、SFをあまり読まない私は今回初めて知りました。カレル・チャペックといえば紅茶?と連想する人も多いかと思いますが、近未来物語をたくさん執筆している作家です。ロボットを世界で初めて登場させた戯曲『R・U・R』の後に発表した『Tovarna na Absoluno』を直訳すれば「絶対者(神)の作品」。Absoluno英語でAbusoluteは、絶対者=神様のことです。英訳タイトルは『The Absolute at large』、直訳すると「捕えられない神様」。それが何で「絶対子工場」になっちゃったのでしょう。
 多分、翻訳者がSFとして解釈していたからだと推測できます。ストーリーは、執筆された時代から数十年先の1943年(チャペックは1938年没)、チェコスロバキア第一共和国(チャペック生前はチェコとスロバキアは別れてなかった)の金属株式会社社長が、どんなわずかな物質でも燃料にして膨大なエネルギーを長期的に放出する器械「カルブラートル」を手に入れ、それを製造し世界各国へ販売し巨万の富を築きます。しかし、その器械はエネルギーを生産する時、物質に封印されていた「絶対=神」を解放してしまうという欠点を持っていました。「絶対」という副産物は、世界中を未曾有の混乱と恐怖に陥れる結果に…というもの。日本での出版の時代が原子力発電所建設推進の頃だったので、「カルブラートル」を原子炉とダブらせたのではないでしょうか。

 確かに、本書の中で「カルブラートル」はゴミでも屑でも何でもエネルギーに変換でき、しかも副産物の目に見えない「絶対」の力で、機械は物作りを学習し自動的に生産するようになる、というコンピュータ機能を備えた夢のようなエコエネルギー製造機械の登場を予測させます。でも、ここで重要視されているのは「カルブラートル」とそのエネルギーより、副産物「絶対」の副作用なのです。そして「絶対」が引き起こした事が、何を象徴しているのか考えるには、作者のイデオロギーと国家の時代背景を知らなくてはならないでしょう。
 チャペック氏が生まれた1890年から1918年まではチェコという国はなく、オーストリア=ハンガリー帝国の一部で、彼が執筆活動していた時期はチェコスロバキア共和国として独立しファシズムが台頭、徐々にナチスの黒い影に覆われていった時代でした。彼は肺炎で病死しましたが、翌年プラハがナチスに占領されると、病死を知らないゲシュタポがチャペック邸を襲撃したそうです。彼の本の挿絵を描いていた兄は、ナチスの強制収容所で亡くなっています。
 カフカ(1883-1924年)と同時代人だったチャペックは、空想科学小説という形態で痛烈な社会批判や宗教批判をしていたことが理解できます。その点で『絶対製造工場』というタイトルもやや的を外している感がします。作者は、器械が産出するエネルギーや、「絶対」を放出(製造してるんではない)する器械が巻き起こす騒動を描きながらも、自分の国家チェコスロバキアの情勢を描き批判しているのです。
 こういう手法は、シュヴァンクマイエルもそうですが、チェコが他国の政権下に支配され、その政権を非難すると危険分子としてブラックリストに加えられる恐れがあったため、よくとられた形態でした。だから、2重3重にも面白いんですが。
 ただ、私が興味を惹かれた『絶対製造工場』というタイトルから私が連想したのは、以前読んだ本に書いてあった「1812年にアメリカで発明された永久運動装置」(当blogswindlers参照 )だったので、内容的に関係ないストーリーにちょっとがっかりもしました。
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veloziferischen 2

2012-05-21 | bookshelf
 『すべては悪魔的速度で あるいはゲーテによるスローテンポの発見』
 カナダ出身の作家ダグラス・クープランド著『GenerationX~Tales for an Accelerated Culture』(1991年)は、1960年~1974年あたりに生まれて、ハルマゲドンが話題になった頃(又は2000年のミレニアム直前)に30歳前後だったアメリカの若者世代を描いたベストセラーで、タイトル「ジェネレーションX」はその世代の代名詞となりました。
 X世代は、preparatory school(名門私立校)に通う良家の子息(preppie プレッピー)が卒業後、物質的に豊かで洗練された都会暮らしをするヤッピーyuppie (young urban professionals)と呼ばれるようになり、焦燥感に陥っていった若者を指すそうです。
 日本でのX世代の若者は、新人類・しらけ世代(三無主義:無気力・無関心・無感動)と呼ばれアメリカとは異なります。クープランド氏は著作活動を始める以前、日本の出版社で働いていた経歴があり、原書でもshin-jinrui と表記しています。
 注目すべきは『~Tales for an Accelerated Culture 加速された文化のための物語』というサブタイトルです。この本は正しく、ニーチェが指摘していた「行動する人々、すなわち落ち着きを失った人々」=X世代の若者達が、「時間の無いことに価値を置く」=仕事や遊びでスケジュール帳を埋めることに躍起になっているので、「人間がもつ性質の穏やかでゆったりした要素を大幅に強化」=疲れた者は過去の記憶を思い出して自分をスローダウンさせてみよう、と言っているのだとM.オフテン氏の『すべては悪魔的速度で~』を読んで理解できました。
シュヴァンクマイエル『ファウスト』:メフィストと契約するファウストを引留める善魂

 アメリカのX世代が、自分を取り巻く社会の加速による焦燥感(不安のためじっとしていられない状態)に悩まされたのと対照的に、日本では無気力感という低速に陥っていたことは興味深いです。それは多分、日本人は古来から生活に馴染んでいる禅の精神が己に向かわせる傾向が強く、それが、社会が急激に変化(加速)すると無意識的にブレーキをかけさせていたのではないかと思います。簡単に云えば「ひきこもり」です。
 前世代の価値観に無関心になった新人類は、好奇の対象を人間ではなく機械・テクノロジーに向けました。アメリカのX世代も、テクノロジーに向かって加速していたに違いありません。小説『ジェネレーションX』は、そんな文系社会(文化でもいい)から理系社会にシフトする段階で、気後れしてしまった若者の避難所として書かれたのかもしれません。
善魂(天使)をやっつける悪魂(悪魔の手下たち)

 ゲーテやニーチェその他多くの文化人知識人が「悪魔的速度」に警鐘を鳴らしても、部分的なスローダウンはできても全体としては不可能じゃないかと、私は思いました。なぜなら、スピードの問題は人類のみの問題ではないからです。
 人間が人工知能(コンピュータ)を造ったのが「加速」なら、神=自然が人類を創ったのも「加速」。自然を生んだ地球、地球を作った太陽、太陽が生まれた宇宙…その中でのほんの小さな点でしかない人間生活(文化でも文明でも構わない)の速度は、人類が操作できるものではなく、宇宙の摂理だと思えるのです。私たちが生きていくために動いているのと同じように、地球も宇宙も動いています。点でしかない人間と宇宙の大きさを考えると、宇宙の速度は人間の速度と比較にならないくらい速いのではないでしょうか。そう考えると、人間生活がテクノロジーによって加速していくのは、宇宙により近づいている証拠(事実そうですし)なので、スローダウンすることもないと思います。
 例えば、人間は図らずも戦争による破壊で、文明や文化の進歩をスローダウンさせてきました。しかし一方で、戦争はテクノロジーの進歩を急速に速めました。急激なスピードアップやスローダウンがあっても、そうやってバランスが保たれ、宇宙的速度は決まっているのではないでしょうか。そうして、ゲーテのホムンクルスさながら、人類もいつの日か宇宙の露となって、また1から時間をかけて人間になる道を歩むのではないか、そんな気がしています。
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veloziferischen 1

2012-05-18 | bookshelf
"Alles veloziferisch"oder Goethes Entdeckung der Lamgsamkeit
「すべては悪魔的速度で」あるいはゲーテによるスローテンポの発見
マンフレート・オフテン著 2009年刊


 翻訳タイトルが『ファウストとホムンクルスゲーテと近代の悪魔的速度』なので、手にとってしまいました。
しかし、内容はゲーテの『ファウスト』第2部第2幕についてではなく、直訳原題そのままのテーマで書かれた論文のようなものでした。哲学的な事を論じているため、ゲーテの作品を少しかじったことがある人でないと理解し難いですが、遺伝子工学やクローンなどの生殖医学に関連する、人間と人間社会と自然科学との係わり方という、決してゲーテの生きていたドイツ哲学的な(堅そうで古臭そうな)時代の枠内で論じているわけではないので、現在そしてこれからの人間社会の方向性について考えさせられました。
 「ホムンクルス」といえば錬金術が生んだ人工生命体ですが、彼が劇作『ファウスト』の中でどのような役割を果たしているのか、という解明にポイントが置かれています。錬金術は、地下の薄暗い不気味な実験室で行なわれるイメージがあり、『ファウスト』の実験室も正にそういう部屋。そこでは主人公ファウスト博士は気を失っていて、出番なしです。
ヤン・シュヴァンクマイエル『ファウスト』のホムンクルス

 ホムンクルスの実験に成功するのは助手です。生命を得た、生まれながらに知恵のあるホムンクルスはメフィストと共に広い世界へ飛んで行きます。でも、ホムンクルスはフラスコからは出られません。行く先々で新しい知恵を出していくホムンクルス。この小さな人工生命体は頭脳明晰なので、何でも素早く成し遂げてしまいます。
 著者オフテン氏は、ゲーテがそんなホムンクルスを「veloziferischen 悪魔的速度」の象徴に位置付けている、と述べています。原題にあるveloziferisch(ヴェロチフェーリッシェ)は、velocitas(伊語が語源:性急さ)とluzifer(独語:堕天使ルシファー)を組み合わせたゲーテの造語だそうです。ゲーテの時代(18世紀後半~19世紀前半)はヨーロッパで博物学が流行し、錬金術は化学実験のひとつでした。ここで踏まえておきたいのは、ダーウィンの『種の起源』が出版されたのはゲーテの死(1832年)後の1859年だったので、ゲーテとその時代以前に「進化」の概念はなかった、ということです。
シュヴァンクマイエル『ファウスト』のメフィスト:悪魔の長ルシファーの手下

 神=自然or宇宙が創世した人間を、人間が造れるようになったということは、神を超越したということです。あたかも現代の人類が、人工知能=コンピューターを造りだしたのと似ています。
 女性の胎内で10ヶ月という時間を必要とせず、既に知恵と知識を持って生まれたホムンクルスが「スピード」の象徴なら、コンピュータは現代のホムンクルスじゃないかと私は感じました。人工知能など思いも寄らないゲーテのホムンクルスが、奇しくもフラスコの中で腹話術のようにしゃべる、という設定もコンピュータを連想させます。
 18世紀のヨーロッパ(本書ではナポレオン以降)は、ゲーテが言うように「悪魔的速度」で世の中が変化し、その変化によって人間も「性急」になったようです。ゲーテは科学に対して積極的な立場でしたが、後年はそのあまりにも「際限のない加速傾向」を懸念したそうです。
 「性急さ」=「落ち着きのなさ」に対する懸念は、他の文学者や哲学者にもあったそうです。ニーチェは著書『人間的あまりにも人間的』で、「落ち着き不足から、我々の市民社会には新しい野蛮性が拡大する。行動する人々、すなわち落ち着きを失った人々は、時間の無いことに、より価値を置く。ゆえに人間がもつ性質の、穏やかでゆったりした要素を大幅に強化するよう取り組まねばならない。」と叙述している、と本書に書いてありました。
 ゲーテに懸念されるまでもなく、イギリスの産業革命以降、人間の生活速度は現在に至るまで加速し続けています。その結果というか経過に起きた事実―交通事故、ストレス、それらに因る病気・事件・殺人などを考えると、「速い」ことが「良い」としている現代人の価値観を否定されているような気分に陥ります。科学者ゲーテはそんな後ろ向きな考えは言っていませんが、フラスコから出て完全な人間になりたがっているホムンクルスは、ターレスの教えに従って、生命の源「海」に身を委ね、貝殻にぶつかって砕けたフラスコから流れ出たホムンクルスは海と融合します(何千という形態を経て時間をかけて人間になる道を選ぶ)。
 「進化」の概念がなかった時代に、ゲーテは既に生命の源を知っていたのでしょうか。ともかく、ゲーテは「悪魔的速度」の申し子を正統な時間の流れに軌道修正させてしまいます。それは彼の倫理観からだったのか、人間が人間らしく生きるためにはどうすべきなのか考えた末の結論だったのか…。この極端なスローダウンの発想も、現代のチッタスロー(スローフードなど)・スローシティ・ムーブメントを思い起こさせます。スピードは、余りに速くなると人間にとって害になるようです。
 アメリカでは、急ぐあまりに、過去の美しい記憶を持つことができない「焦燥病」という概念が広がったほどだといいます。ちょうど先日『ジェネレーションX』という小説を読んだばかりで、この性急さからくる「焦燥病」に関心を抱きました。
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a mature nation

2012-04-06 | bookshelf
『文明としての江戸システム』鬼頭宏著 講談社


上記の本の最終章に、こう書いてありました。
「しかし今や、完全に消え去ったと思われた江戸のシステムが注目されている。それは歌舞伎・三味線などの伝統文化や芸能に対する関心にとどまらない。生活時間、人間関係、労働観と遊び、自然との関わりなど、多面にわたっている。江戸への関心は、たんなる懐旧趣味から出たものではない。江戸後期に達成された成熟社会の姿を、無意識のうちに、二十一世紀の成熟社会に重ねてみようとしているのではないだろうか。
 日本列島の一部に限定された生活空間のなかで、量的な成長が困難になった時代、人々はどのような日々を過ごし、どのような一生を送ったのか。現代とは比べることができないほどの短命な人生しか享受できない時代ではあったが、また量も内容も貧弱な物質文化であったというほかなかったにもかかわらず、その生活文化は二十一世紀の世界が求める『持続可能な開発』を支えるに相応しいものであったようにみえる。成長と競争に明け暮れた二十世紀に、江戸後期に達成された生活文化は、いったんは否定され、破壊された。それが今、新しい道具立てを背景に、ふたたび求められているといったら、言いすぎだろうか。」
「現代のわれわれにとって、江戸後半の停滞の時代は、一つのかがみとなる時代である。それは江戸時代をモデルとして真似る、という意味ではない。成熟した文明とはどのようなものなのか、そこでは何が起きるのかをみせてくれるのである。壮大な社会実験であったといってもよい。物質とエネルギーの輸入が、とるに足りないほどの規模でしかなかった社会で、人口はどのように変化したのか、生活はどうなったか、家族や人間関係はどうなったか。」
として、
「江戸時代を知ることで、このような時代を乗り越える知恵を得ることができると期待するのは、見当はずれであろうか。」
と結ばれます。
 しかるに、戦後の平和な時代の政治家たちは、先人から学んでいるのでしょうか。野党と与党が変わろうが、お互いの政策に反対を唱えるだけで一向に前進しない政党政治には、うんざりします。

 城山三郎氏の『男子の本懐』を読んで、そんなことを思いながら涙しました。
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a beauty of Iwase bunko library

2012-03-12 | bookshelf
登録文化財 岩瀬文庫旧書庫
大正5~11年建築

 “日本初の古書ミュージアム”西尾市岩瀬文庫(愛知県西尾市)で開催中の企画展「こんな本があった!」に行ってきました。
 岩瀬文庫は、明治維新の前年1867年慶応3年(大政奉還の年)西尾市に肥料商の四代目として誕生し莫大な財を成した岩瀬弥助が、私財を投じて42歳の時設立した8万点余の蔵書を抱える図書館です。その古書のジャンルは多岐にわたり、非常に貴重なものが多く、今世紀にはいって開設以来初めて全資料調査を名古屋大学教授のプロジェクトが手掛け、これまでに貴重な書物がいくつも発見されました。
 岩瀬文庫の素晴らしいところは、その貴重な書物を一般の人達が気軽に手に取って読むことができることです。研究者が調べた調査結果は、定期的に公開報告会で発表。無料・予約無しで誰でも公聴できて、内容も専門用語羅列でなく解り易く楽しい説明会です。
会期:平成24年1/21~4/1

 前々から行ってみたかった岩瀬文庫へ、今回で12年目になる調査報告の「特別講座」を聴きに出かけました。鉄道とコミュニティバスを乗り継ぐ、西尾市内でもちょっと不便な場所にありました。到着してまず昼食でも…と思っていたのに図書館の周辺にはファストフード店も無し。西尾市は古書の町だけでなく昔の街並みも大切にしている市なので、狭く入り組んだ細い筋が多く、図書館正面の道路を辿って行くと途中からクランクの細い道(舗装はしてあるけど)になってまた太くなってたりと不可解に思いながら、ようやく色褪せ剥げかかった「BAKER SHOP」と書いてある“角のたばこ屋さん”的お店を発見。パンのいい匂いがしたので入ってみると店内に飼い猫がうろうろする昭和なコンビニ店でした。パンを買って引き返す途中、先程の不可解箇所に説明板があったので読んでみると、そこは昔、西尾の町の入口として門があった所で、道路の鍵型は枡形の名残りということでした。えらい!!西尾市。結構車の交通量はあったのに、道路整備しないでいるなんて。(賭けボーリングの悪いイメージからポイントアップ)
 岩瀬文庫は、市立図書館の敷地の奥にある近代的な建物です。創設当時は木造平屋の瓦葺きだったそうです。旧書庫は池の緑の奥まった場所にひっそりと建っていて、中には入れません(中に蔵書はない)。岩瀬文庫の図書館の1階にテーブルと椅子があって、そこで飲食ができました(匂いの強いものは持ち込み不可。コーヒーとジュースは販売やってます。フードの販売は無し)。

 企画展会場は2階で、2階には和綴じ本のレプリカが置いてあり、自由に閲覧できるように椅子と机が置いてありました。その椅子と机や棚は、改修前に使用されていたものだと見受けました。北斎の描いた地図や式亭三馬の黄表紙などもあって、和紙の触感が江戸時代へトリップさせてくれます。他にも現物をコピーしたファイルがあって、内容を見ることが可能。そのコピーも1枚10円でしてもらえますし、申し出れば閲覧室で現物を閲覧することもできるんです(学芸員さんが気軽に応じてくれます)。この日は時間がなくてできませんでしたが、ここには蔦重著『本樹真猿浮気噺(もときにまさるうわきばなし)』村田屋板、京伝の『金々先生造化夢』もあるので、是非また行きたいです。
 「特別講座」で紹介された珍書は、土地柄三河に関するものが多いのかと懸念してましたが、岩瀬文庫蔵書は遠く離れた県に関するものなども多いらしく、興味深さが増しました。三河人が著した『膝栗毛』のパロディ『笑談膝栗毛』のようなお約束モノから、江戸前期の家庭料理のレシピ本『八百屋集』など。
 私が心引かれたのは、『未曾有記』という随筆。遠山金四郎(遠山の金さん)のお父さんが職務で江戸と東蝦夷(北海道東部)の往復旅行で体験した、様々な未曾有の出来事などを綴ったものらしく、続未曾有・続々未曾有…と続くそうです。そういえば金さんのお父さんと大田南畝は同世代で同じ学問吟味(人材登用試験)を受けて1,2を争ったんじゃなかったっけ…南畝も70歳になっても隠居できず各地に赴任したサラリーマン武士だったと以前本で読んだことを思い出し、心の内で苦笑いしてしまいました。
岩瀬文庫の世界
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never let me go to the island

2012-01-19 | bookshelf
 昨年末、正月に読む本でもないかと居間にある本棚(母の蔵書)に目をやると、カズオ・イシグロの『日の名残リ』(既読)に並んで『わたしを離さないで』と『夜想曲集』があるのに気付き、いつのまに…と母に問うて、そのうち借りようと思って床に就いた後、わざわざ母がその2冊をベッドサイドまで持ってきてくれました。
 『わたしを離さないで』は映画化され日本公開時にテレビの露出もあって、あらすじは知っていたのでさほど食指は動かなかったものの、半分くらいから一晩で読んでしまいました。
映画Never Let Me Go 2010年公開

 臓器提供を目的に創られた(飼育された?)、クローン人間プロジェクトのお話。
 読みすすんで間もなく、テレビでやってたのを見た『ジ・アイランド』という映画を思い出しました。こちらの映画は原作はないのかな?映画の劇場公開は、『わたしを離さないで』が出版されたのと同年の2005年でした。
自分の正体を知って逃げる決意をするS.ヨハンソンとE.マクレガー

 クローン人間を創って臓器移植をする、という同じテーマの本や映画ができたということは、10年くらい前から臓器移植とクローン開発が結びついた考えが取沙汰されるようになっていたのでしょうか。ちょっと調べてみたら、2003年にクローンエイドというアメリカの会社でクローン人間の出産(クローンといえども子宮から産まれるのね)に成功した、という記事を見つけました。
 ゲーテが『ファウスト』の中で錬金術師に造らせた人造人間ホムンクルスは、小さい人間でしたが知能は大人と同じでした。ホムンクルスは試験管の中から出られなかったけれども、生みの父である教授をほっぽりだしてメフィストフェレスと共に次の世界へ行ってしまうのです。
 『ジ・アイランド』も最後はクローン人間たちが施設の外へ出て行きます。『わたしを離さないで』の主人公は、生き延びる一縷の望みを追求してみますが絶望的な最後しかありませんでした(結局プロジェクト自体が頓挫したので、大きな目で見れば悲劇ではないのですが。)。
 人間は人間を支配できると考える人がまだいるようですが、そういう人種は、人類はいまだ嘗てこの地球上の何も支配できたことはない、ということに気がついていないのでしょうか。むしろ人間の方が、メフィストフェレスのような悪魔に支配されてることのほうが多い、ということに。
 
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about Owari Edo literary exchanges recorded-4-final

2012-01-16 | bookshelf
『四編之綴足(とじたし)』 東花元成(とうかもとなり)著 北亭墨仙画
1815~16年刊行 美濃屋伊六 板
一九と弥次さん喜多さんが名古屋本町通で出会う画

 十返舎一九先輩となると、尾張を初めて訪問したのが何時か、何度足を運んだかは確かなことはわからないでしょう。最初といえば、小田切土佐守に付いて大坂へ赴任した時(1788年24歳)、名古屋で宿泊でもしていたでしょうし、武士を辞めて大坂から江戸へ戻る(1793or1794年30歳)途中、名古屋で遊んだかもしれません。(もっとも、武士を辞めた手前、郷里の駿府を通る東海道は避けて中山道を江戸へ向かったと考えられますが。)
 『東海道中膝栗毛』が大当たりして、大先生として名古屋で歓待されたのは、1805年文化2年41歳で伊勢参詣に行く途中でのことでした。この年の正月に新居宿~宮の宿(愛知県内の東海道)を書いた『東海道中膝栗毛四編』上下巻が発売された後だったので、地元の人々は一九の訪問に沸きかえったことでしょう。同様に、一九先輩も尾張の文人(狂歌仲間・戯作仲間など)のもてなしに大層感じ入ったようです。この時聞いた話を次の五編(桑名宿からスタート)のネタに使ったり、挿絵の自作狂歌に尾張の狂歌師の名前―椒牙亭田楽、蛙面水、南瓜蔓人、梧鳳舎潤嶺、楳古、彙斉時恭、灯台元暗、花林堂、右馬耳風、在雅亭ひかる―を使用したりとサービスしています。そして椒牙亭(しょうがてい)田楽という狂歌師が、戯作者・椒芽田楽(きのめのでんがく)=神谷剛甫(馬琴の門人、一九からお礼の年賀状をもらった藪医者)その人でしょう。
 とくれば、貸本屋大惣のお抱え作家だった剛甫が、一九先輩を大惣へ連れて行ったことは想像に難くないです。また、『江戸尾張文人交流録』に“五編が刊行された文化三年前後から名古屋周辺では地元作者による「膝栗毛」のパロディーが流行し始める”とあり、『名古屋見物四編の綴足』が紹介されていました。
 見出し↑の『四編之綴足』の「四編」とは、もちろん膝栗毛四編の追加の意味です。尾張を旅する弥次喜多が、本屋の主人2・3人と飲みに出かける一九と名古屋の本町通で出会い、一九の宿泊先・本町の駒庄へ泊まれと言われる件があるそうです。駒庄は名古屋城下玉屋町三丁目にあった駒屋庄次郎という実在の旅籠だそうです。『四編之綴足』を出版した板元・美濃屋伊六は本町通6丁目の書肆で永楽屋の近所。十丁目の松屋善兵衛とも懇意だったでしょう(玉屋町の界隈)。そして、挿絵を担当した浮世絵師・北亭墨仙は、1812年に名古屋へ来た北斎の世話をする墨僊(尾張藩士・牧助右衛門)です。著者の東花元成については不明でした。
 その後一九先輩は、1811年に伊勢太々講参りに出かけ大坂に逗留、1813年には播州(兵庫県あたり)巡りをしています。東海道を使っていれば、尾張を通過するとき既知の人が誰かれか彼を歓待したことでしょう。北斎が半年逗留して大画イベントを催した翌年1815年、51歳の一九先輩は書肆松屋に逗留、奥三河の鳳来寺に参詣して、翌年松屋善兵衛から『秋葉山・鳳来寺 一九之記行』を出しています。
 先の『四編之綴足』は、『膝栗毛四編』出版直後に書かれず、この時の尾張滞在と重なる時期に出版されたので、単に『膝栗毛』のパロディーとしてではなく、戯作者・十返舎一九と尾張の人たちとの親交がいかに深かったかを示すため、製作されたのではと思います。つまりは、そこに書かれている一九先輩が、駒庄に宿泊し、書肆などと酒を飲みに名古屋城下の繁華街をふらついていたのは事実なんでしょう。
 50代になっても一九先輩は精力的に旅をして、越後(新潟県)の鈴木牧之宅を訪れた翌年1819年にも本居内遠に会いに名古屋へ行っています。その前に信州伊那の書画会に出席したので、そのまま名古屋へ出たのかもしれません。
 本居内遠(うちとお:1792-1855年)は、名古屋の書肆・万巻堂菱屋の倅、馬琴とも親交があり、40歳の時和歌山藩の国学者・本居大平の婿養子になり二代当主となった人物です。一九先輩と会った時はまだ27歳で、万巻堂の主人・菱屋久八になっていたかどうかは不明ですが、本居大平の門人となって国学者を志す以前は、自ら狂歌や戯作を作り、江戸狂歌人との人脈もあり、尾張人の狂歌本を出版してました。後に義父となる本居太平(おおひら)は、伊勢松阪の町人で、本居宣長の門人になり、44歳の時宣長の養子になっています。宣長の実子が失明した後、太平が家督を継ぎ、太平の門人内遠が養子に迎えられ、その家督を継いだという繋がりです。
 一九先輩は、読本や滑稽本ばかりでなく、往来物(実用書、寺子屋などの教科書)も多く執筆していたので、学問の基礎知識を得るため内遠に会いに行ったのでしょうか、それともビジネスの話をしに書肆菱屋を訪問したのでしょうか。
 
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about Owari Edo literary exchanges recorded-3-

2012-01-13 | bookshelf
『北斎漫画』奥付
校合人 月光亭墨僊、永楽屋東四郎の名がある

 本居宣長は生誕地松坂(三重県松阪市)を拠点にした医師・国学者というイメージが強いので、芭蕉より更に江戸人としての印象が弱く感じます。
 尾張と親交が深かったちゃきちゃきの江戸っ子文人で頭に浮かぶのが、葛飾北斎。でもその北斎が訪問する10年前の1802年享和2年に駆け出しの馬琴が名古屋に15日滞在していました。“お供に剛甫(ごうほ)を連れていた”と『江戸尾張文人交流録』に書いてありましたが、剛甫は尾張の医者・戯作者・狂歌師で馬琴の門人、馬琴著『江戸作者部類』に“尾州名護屋の藪医者にて神谷剛甫といふものなり....”と書かれた人物なので、彼が馬琴を案内世話してあげたのでしょう。十分な旅費のない馬琴は、師・山東京伝に描いてもらった書画を携えて、それを売って路銀の足しにしながらの貧乏旅行だったくせに、よくも失礼な説明文を書いたものです。
 この剛甫がどうして馬琴と繋がりを持ったのかはわかりませんが(大田南畝の縁故?)、馬琴の去った3年後1805年に十返舎一九が伊勢参詣途中に寄った時、剛甫は狂歌仲間と共に一九先輩を歓待し、翌年一九先輩からお礼の年賀状をもらっています。そしてこの人、医師としてより椒芽田楽(きのめのでんがく)or西郊田楽という戯作者の方で有名だったようです。著書も何冊かあり、貸本屋大惣のお抱え作家だったそうな。馬琴は名古屋滞在中、大惣の蔵書を読ませてもらったと書いてありますが、それも剛甫のおかげだと推測できます。馬琴の尾張訪問はこの1回だけだったのでしょうか、本書には記されていません。
 北斎は1812年文化9年、53歳の時初めての関西旅行の帰り名古屋に寄りました。といっても当時東海道を関西方面へ旅すれば、絶対名古屋で休み、見物くらいはしたでしょう(ひょっとして往路は中山道だったとか?)。が、北斎は尾張藩士・牧助右衛門信盈(のぶみつ)・墨僊(ぼくせん)という号を持つ浮世絵師の自宅(名古屋鍛冶屋町)に逗留し、書肆永楽屋東四郎から絵手本『北斎漫画』の出版の約束をさせられたのでしょうか、1814年刊行されます。
 『北斎漫画』初編がめでたく刊行された同じ年、北斎は再び墨僊宅へ逗留、後に花屋町(現・栄三丁目)の借家へ移り、西本願寺別院の東庭で「北斎大画」のイベントを催します。百二十畳の美濃和紙の厚紙に達磨の墨絵を描くもので、すでに江戸で催行し4回目でしたが、最初完成品を上から見ることができなかったのを改善して、紙を吊り下げられるようにしてあったので、大好評を得たそうです。
 このイベントに係わったのが書肆永楽屋東四郎。宣伝広告だけでなく、美濃出身の強味で美濃和紙、更に墨の製造元だったので自分の製品を大アピールできました。この時北斎は半年名古屋に滞在したといいます。
 
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about Owari Edo literary exchanges recorded-2-

2012-01-11 | bookshelf
『江戸尾張文人交流録』の後に「芭蕉・宣長・馬琴・北斎・一九」と書いてあるので、尾張の文人・出版関係の人物とこれら5名の著名人との交遊の事が詳しく書かれてあるものだと思って読んでみたのですが、著者が詩人でもあるからか、たった163ページのうち半分が俳人松尾芭蕉に割かれていて、残りの4名に関しては通り一遍の事柄が数ページずつ説明されてあるだけでした。
 本居宣長・曲亭馬琴・葛飾北斎・十返舎一九は活躍した年代が同じで、尾張を訪問した時期も遠くなく、訪れたであろう場所も同じで、同一の尾張の文人と交流していたことでしょう。なにぶん、芭蕉に比べれば記録が少ないので、ほぼ想像になってしまうのですが。まず当時の名古屋城下(城の南側)をまとめて描いてみました。

 名古屋の町割りは碁盤の目で、信長の清洲越で清洲の町をそっくりそのまま当てはめたので、通りの名前も名古屋と関係ない「桑名町」「長島町」などというものがあります。これは清洲は三重からやって来た人達が多く住んでいた町だったからです。現在も同じ通りの名前が使われています。
 お城の本町御門からまっすぐ延びる本町通が、当時のメインストリートです。
A書肆風月堂長谷川孫助。京都風月堂の出店からスタートした老舗本屋。
B書肆東壁堂永楽屋東四郎。本町通七丁目。初代直郷(なおさと)は美濃出身。風月堂で修行後1776年35歳で独立。尾張藩校明倫堂御用達、尾張藩製墨御蔵元。本居宣長『古事記伝』、北斎『北斎漫画』出版。現在名古屋城天守閣内に店先が再現されている。
C貸本屋胡月堂大野屋惣八(大惣)。初代が知多半島の大野(江が最初に嫁いだ先)出身なので大野屋。元禄年間名古屋で酒屋開業。2代目薬屋を兼業。初代ともに書籍好きで好事家のサロンとなる。1767年明和4年3代目が貸本屋開業。
 書肆は他に、松屋善兵衛(本町通十丁目)、美濃屋伊六(本町通六丁目or京町通小牧町)など本町通の広小路近くにあったみたいです。もちろん城に近ければ近いほど格式が高かったでしょう。
 町奉行所の隣りにあった伊藤次郎左衛門店というのは、1611年創業1659年に呉服小間物問屋を開業した伊藤呉服店で、1768年に江戸上野の松坂屋を買収していとう松坂屋と改名、1910年明治43年名古屋栄に百貨店として移転した松坂屋の祖。
 名古屋は宿場町ではないので、本陣はありませんが、本町通と伝馬町通の交差点に高札場があって札の辻だったようです。この界隈は桜天神の祭りもあり、大丸屋もあり、最も賑わった場所。本町通は南下すると大須観音・熱田神宮へ続きます。
 江戸時代の本町通も描いている尾張名所図会(本町通四丁目)の画が当時の賑わいを伝えてくれます。また、尾張名所図会の魚ノ棚通で催された四月十六日東照宮の祭礼の図に「大惣」の広告看板が見られます。
 馬琴や一九は、大いに楽しんだことでしょう。
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